ファンは盲目

 性格はくづだが作品にはいいものがある作家についてどう思ふか。

 と書くと「くづ」なんて言葉がげびてゐると言はれさうだが、性格が破綻してゐると言ひ換へても本質は同じである。
 私は昔かういふ記事(https://ncode.syosetu.com/n4777y/)やそれと同じ趣旨のツイートを見たりして、漠然と、作品と作家とを分けて捉へた方がよいと思ってゐた。しかし、作品はその作家の側面なので完全に切り離すことはできないと、今は改めた。
 作家の印象をそのまま作品に持込むことはあまりしない。作品が駄目であれば駄目だと言ふし、良ければ良いと言ふ。駄目な根拠が作家にあればそれを指摘する。それだけだ。
 ファンは作家の駄目な所を認めたがらなかったり、無視したりすることが多い。駄目な点を指摘すると怒る事さへある。その場合は厄介だ。
 自分もかつてはさうだった。私は井上ひさしのファンだったので、井上が当時の妻だった西舘好子に振るった暴力を一時期は認めたくなかった。屈折した感情だった。Wikipediaに「ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって」といふ記事があることに対しては、これを目にした人は井上のおもしろい作品に触れなくなるから載せない方がいいのにと思って嫌だったし、井上の政治思想は小説とは関係ないだらうと心の中で反撥した。(もちろんそんなことはない。)
 今は、井上にはくづな面があるが作品にはいいものもあると客観的に見られるやうになった。
 井上のほかには、四回女と心中した太宰治や、妻だった矢川澄子に四回も中絶させて子を産めない体にした澁澤龍彦などがひどい。夏目漱石なども次男に暴力を振るってゐたから、文豪と言はれてるのは軒並みくづぢゃないかと思ふかも知れない。実際、北杜夫はエッセーに、雇ったお手伝ひさんの父親が太宰治を想起して、娘が作家の家(北の家)で働くことを心配してゐた、といふ事を書いてゐた。作家に対する一般人の感覚としてはそんなものも割合あるだらう。

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 漱石が精神的に不安定な人であったということは、英国留学で「発狂した」というエピソードや、『行人』のなかの不安神経症を描いた部分からある程度推測できるが、実際はどうだったのかというと、やはりヤバイ人なのである。

 漱石は病的な癇癪持ちだった。それが原因で家族に対し暴力を振るうこともあった。伸六がまだ小学校に上がらない頃、兄と漱石と三人で散歩にでかけた。三人は見世物小屋に入り、兄と伸六は射的をやりたいとねだった。しかし、二人は急に恥ずかしくなって、父親の二重外套の袖に隠れようとした。子供らしい行動だ。だが、次の瞬間、漱石は「馬鹿っ」と大喝すると、伸六を打っ倒し、「下駄ばきのままで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろ」したのだった。

 では作家の人格が嫌ひだからその作品を読まないのか。私は昔さうだったが、考へを改めてから個人的に嫌ひでも読む必要があると思ってゐる。小谷野敦が『川端康成と女たち』幻冬舎新書で書いてゐる。

 人間は、人物Aのしたことを分別して、したことBは悪いがCという悪いことはしていない、という風に考えるのがかなり苦手であるらしく、ある人物Aは善か悪かどちらかにしないと気が済まない。私はそれを分別して考えているのだが、なかなかそれは伝わらない。また人物の善悪の分別を、知的にではなく情緒的にするくせがあり、これは悪いことだが気持ちとして理解する、と言ったりする。

 作家の人格が嫌ひだからその作品を読まないといふ態度は、まさに《ある人物Aは善か悪かどちらかにしないと気が済まない》といふことである。公平ではない見方だ。ただし読んでみて結局よくなかったと思ふこともあらう。

 不倫や薬物が露呈した有名な俳優などの作品に、販売中止などの措置が取られるたびに、作品には罪がない論争が起る。私は、その場合創作物に関しては仕方がないと思ふ。
 と書くとさっき「まさに《ある人物Aは善か悪かどちらかにしないと気が済まない》といふことである。公平ではない見方だ。」と書いたばかりで、即矛盾したやうに思はれるかも知れない。しかし販売中止は善悪や、作品に直接的な罪のあるなしにかかはらず、そもそも当人に社会的制裁を与へる目的があるから、私としてはいいと思ふ。もちろん版元が不当な圧力に屈して中止にする事などはまったく不当である。