通俗バカSF映画Don't Look Up

 配属が決った後の昼さがり、文芸部を訪ねて、奥に配置されたソファに寝っ転がる四年生の姿を目にした。薄汚れて清潔さの感じられない布地にだらしなく横たはって足を投げ出し、真面目に研究室に属してるとは思はれない気だるげな顔と二言三言交はして、乾燥して文字が消えないホワイトボードに残った、部室のルーターのSSLDとパスワードを、二年生が秋葉原で勝手に買ってきた新しいルーターの羅列に書き換へた。椅子に坐ると相手が尋ねてきた。SFは好きか。まづまづだが電気羊は読んだとこたへるといいねと笑みを浮べて、攻殼機動隊の話を始めた。
 しかし様子がをかしい。どうやら攻殼機動隊に心酔してゐるらしく、私は最近友人にも押井守を見ろと言はれた由を話したが釈然としない顔になる。押井守なんかよりよほど攻殼機動隊自体に関心が強いらしい。Netflixの3Dアニメの攻殼機動隊がかなりよかったらしく、絶賛して、ポストヒューマン、ポストって次のって意味だから次の人間ってこと、しかもポストヒューマンは個人ぢゃない、集合意識なんだと割合どうでもいい事を聞いた。さらに狂気じみて、将来世界は人間の脳と仮想空間とをつなぐ電脳社会になる、脳を仮想空間につないだらみんな好きな事ができて戦争が無くなる平和になると荒唐無稽な夢物語を真剣に信じてゐる。私に言はせればサイバー戦争に代替されるだけだらうし、小谷野敦が書いてる事だが、世界がひとつの国になっても戦争はなくならず内戦にかはるだけだ。思はずおいおいと、インチキドグマの新興宗教と共通するものを感じて、なかば試すやうに「電脳世界のメリットってなんですか」と聞いたらこちらを失望したやうな蔑むやうな顔になって「メリットとかないんだよ。自然にさういふ社会になるんだ」と答へた。阿呆ではないかと思った。すっとんきょうにも程がある。富永健一は『近代化の理論』で、「ポストモダン」は近代が終ってゐないのに近代の次の時代に移行したと主張してゐると指摘した。しかもポストモダンの定義ははなはだ曖昧なもので、そのやうな社会は現実に存在しない。同様に、この人が将来的に実現を予感してゐるといふポストヒューマンもまた、人類が終ってゐないのに次の新しい人類を空想してゐるいい加減で曖昧な概念なのだと思った。さういへば最初にもこの人は愚民化だのナチスだの言ひだしてゐたのを思ひ出し、愚民を教育しなければならないと嘆いてゐるふうだった。しまひには全米ライフル協会会長の言動をも持ち出してきて、ボウリング・フォー・コロンバインだなとぴんときたので、相手の口を黙らせるために「マイケル・ムーアですね、華氏911は見ましたよ」と言ったらうなづいたが、すでにチャールトン・ヘストンは没して会長は交代してゐるのだから、さういふ昔の言葉を掘り起こしても意味はない。私はこれが学生に典型的な左翼なのだなと思ってげんなりした。そしてずらかればよかったとちょっと後悔した。

 すると四年生はムーアに反応したのか、どうやら関連のあるらしいNetflixの映画を「見ろ」と命令形で言ってきたのである。パワハラだと思ったが、部室のPCからネトフリにログインして「ドント・ルック・アップ」と映った画面を向けた。あらかじめあらすぢを聞かされた。天文学者が隕石を見つけても全然本気にされず地球が滅亡する話だといふ。なにがおもろいねんと思った。
 そして実際つまらなかった。ガチつまである。レオナルド・ディカプリオアリアナ・グランデが出演してゐるが、バカSF通俗2時間映画である。
 まづ冒頭で学生が地球に衝突する彗星を発見する。計算の結果、衝突はほぼ一週間後だと判明し教授の天文学者NASAの知り合いに連絡する。
 この設定がまづありえないと私などは感じる。この映画がある種のリアリティを追求してゐる事と相反してゐるし、映画の後半の、スティーヴ・ジョブズみたいな天才がつくった巨大ドローンが彗星を破壊する場面を見れば、さういふ高い技術力を有しながら一週間前まで彗星の衝突がわからなかったなどといふのは、ほとんどありえないか、莫迦だと思ふ。私は三浦しをん『むかしのはなし』の井上ひさしによる直木賞選評を思ひ出した。

また、「隕石、地球に衝突」という全地球的大事件が、三ヵ月前までわからないなど、とても信じられない。(『井上ひさし全選評』白水社

 これに対して大森望は『文学賞メッタ斬り!リターンズ』PARCO出版における豊﨑由美との対談でかう言ってゐた。

大森 信じられない気持ちはわかりますが、科学の力を買いかぶりすぎです。なにしろ宇宙は広い。「ディープ・インパクト」だと一年前に発見されてますが、あれはハリウッド映画ですからね。三ヶ月前まで見つからないことは充分にありうる。「アルマゲドン」だと十八日前。新井素子の『ひとめあなたに…』なんか一週間前ですよ。ま、伊坂幸太郎『終末のフールー』では八年前から予告されてますけどね。
(略)
 とりあえず、SFが直木賞候補になっても(註。銓衡委員の)誰も喜ばないことがよくわかりました。

 しかし、《科学の力を買いかぶりすぎ》と言って出てくる例が現実の例ではなく、軒並みフィクションなので、SFでSFの擁護をしても《三ヶ月前まで見つからないことは充分にありうる。》といふ理由にはならない。フィクションにはかういふ例があるのだから認めろと言ってゐるやうなものだ。大森はかなりのSFファンだからかういふ奇妙な擁護をしたのではないかといふ気がする。小説にはなにを書いても構はないとしても、それが受け容れられるかどうかはまた別で、三ヶ月前はまだぎりぎり許容できるとしても、さすがに一週間前の判明など私にはとうてい説得力に欠ける話である。
 違和感はここだけではない。天文学者らは衝突を伝へに米国大統領に会ひに行く。この大統領は赤い帽子をかぶって集会をしたりと明らかにトランプ大統領を皮肉的に模してゐて、しかしあまり露骨だとまづいと考へたのか金髪の女になってゐる。だが、いままで米国で女性大統領が当選したことはないし、当時共和党はトランプを、民主党はヒラリーを擁立したから、なんとなく映画の女性大統領は保守的に見えづらい気がする。
 また、米国にはTV局が無数にあるにもかかはらず、この天文学者と学生が彗星衝突の情報を提供するのがゴシップニュース番組みたいな所なのも変である。しかも一度目は全然信じてもらへなかったのだが、衝突が本当だと知れ渡った後で、なぜか再度同じ番組に出演するのも奇妙である。
 ほかにも不快なことにこの映画はつまらない下ネタにばかり達者で、かの四年生などは私の後ろで映画を見ながら低俗な笑ひを漏らしてゐたが、なにがおもしろいのか。天文学者はすぐ女と寝たり、終盤にはパニック映画にありがちな安っぽい家族愛が描かれてゐたりして、2時間椅子に張りつけられたのが無駄だと断言できるが、見終った後でこの四年生はこの映画が社会問題を提起してゐると評して、現実に則したリアリティを感じるだらうと聞いてきた。
 どこがだよ。ただの安っぽい演出の下手なブラックコメディ映画で、かういふ映画を見ておもしろがるのは反トランプや反米左翼だけだといふ気がする。