読んでもよくわからない本のはなし3『パルプ』

 高橋源一郎と翻訳家の柴田元幸の対談『小説の読み方、書き方、訳し方』河出文庫の第三章「小説の読み方」海外文学篇を読んだら、

高橋 (略)柴田訳の『パルプ』は、ブゴウスキーの原文よりいいんじゃないかなあ。あの日本語はすごい。

僕は、九〇年代の日本の最高の名訳は柴田さんの『パルプ』だと思ってるんですけど、(略)『パルプ』はすかすかに見えるじゃないですか。でもよく読むと、ある意味で日本語の散文の最高の例だとわかるはずです。

と言ってゐたので、へえそんなにいいのかと思って、〈欲しい古本リスト〉の一册として携帯のメモ帳に加へておいた。普段からただでさへ欲しい本が多いのに、さらに忘れがちな性格を補助する目的で、隣駅のブックオフへ出かけた際に必ずブの棚を見るやうに書き留めた。入店する度に声を張りあげて挨拶するカウンターの店員に、ひとづきあひの不得手な人間としてなかば萎縮しながら、ある日やうやく私はそれを手に入れた。
 しかしこの小説の終り方は訳がわからなかった。ストーリーも大しておもしろくない。最近ちくま文庫から復刊したが、小説では探偵の依頼人の女が《目もくらむ素晴らしい体。》となってゐるのに、新潮文庫版にはさまれてゐるアメコミ風の挿絵からは、アメコミが往々にしてさうであるやうに、美人には見えないのだった。ベティ・ブープみたいなものだ。
 高橋が評価したのはこの小説の、すぐに売女だのケツだのバカだのアホだの飛び出す、スラングを交へた俗悪な言回しの所だらうが、文体として新奇性のあるものには思へない。高橋と柴田の両者が評価してゐるジョイスフィネガンズ・ウェイク』も、ピンチョン『重力の虹』もやたら文壇ではすごいすごい、ポストモダンだと持てはやされて、現代文学もその流れを受け継いでるやうな所があるのだが、本音の所では誰も読み通せるわけがないのである。読み通せてもまったく意味が解らないのである。柴田が対談で、

柴田 いまだによくわからないんですね、ピンチョンは。(略)とにかくピンチョンに限らず、僕は大作を読むと、あッという間に頭が飽和しちゃうみたいですね。

柴田 『フィネガンズ・ウェイク』は一ページ読んで、すごいことはわかるわけです。でも、そこでもう僕の頭は飽和しちゃうんだよなあ。

と言ったのは、「大作」とか「すごい」とかいふ読む前からの前評判を除いては、正しい感覚である。J・L・ボルヘスが、ジョイスのやうに難解で読むのに大変な努力を要する作品は失敗してゐると言った(『語るボルヘス岩波文庫のは正しく(おまへが言ふなとは思ふが)、丸谷才一ジョイスはすごいすごいと言ひつづけた事の誤ちはここらへんにあるだらう。こんなのは難解すぎて内容にすらたどりつけないのだから、内容以前に文体だけの小説なのだ。逆に『パルプ』などは文体がすかすかですぐに読み通せるが、内容がないといふのが内容である。
 先日、町田康の『私の文学史(NHK出版新書)を読んだら「筒井康隆の一人語りの衝撃」といふ項があって、町田は筒井の「夜を走る」といふ短篇が全編一人語りの大坂辯で書かれてゐるのを読んで、しかもそれが生の方言なので衝撃を受けたといふのだ。文学の言葉と日常の言葉とは常に分けられる存在であり、町田は、文学の言葉に土俗卑俗の言葉を混ぜる事は考へつかなかったといふ。
 しかし私にとってこの感覚は理解しづらい。私からすると大阪辯で語るとか井上ひさしのやうに東北辯で語るとかいふのは、単なる文体の差といふ域にとどまる話だ。それは私が常に標準語でものを喋ったり考へたりするからかも知れないし、文学の言葉と日常の言葉とを分けて考へてゐなかったからかも知れないし、あるいは文体よりストーリーを重んじるからかも知れない(その傾向は最近からだが)。あまり特異な文体で語ってわざとらしい感じを出すのも好きではないが、特異な文体なんてものはずっと同じ調子でつづけて読んでると飽きてしまふものだ。とにかくさういふ小説との出会ひが町田を文体の小説家としてデビューさせたのは確かである。高橋が『パルプ』をほめちぎるのも同じことだと私は思ふ。
 アマゾンを見たら、ほかのレヴューはどこがよくてほめてるのかさっぱりわからない文章ばかりだったが、これは腑に落ちた。

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《しかし、以上の読みが当たっているとしても、ブコウスキーはなぜ、93年になってそんなことを言いだしたのだろう?》といふ文につきる。こんな文体だけの小説なんか読む価値はあまりないと言っておかう。