舞城王太郎と賞

大江を援用したラノベをさがせ!

 『大江健三郎 作家自身を語る』新潮文庫で聞き手の尾崎真理子が、大江の小説『万延元年のフットボール』についてかう言った(文庫p.127)。

 ――とにかく、文学的な影響力の大きさからみれば、おそらく戦後のベストワンがこの作品ではないでしょうか。村上春樹氏の『1973年のピンボール』へタイトルをはじめとして影響を与えたともいわれますし、最近ではライトノベルの作品にも兄弟と蔵のミステリーが、周知の古典的エピソードとして援用されたり。(略)

 村上の『ピンボール』の題が大江の『フットボール』から取られたといふ説は、おそらく柄谷行人が言ひはじめた。柄谷は大江との対談*1でも言ってゐたが、しばらく真偽が疑はしいうはさのやうになってゐた。
 しかし、最近村上は東京FMのラジオ番組「村上RADIO」で大江のもぢりだと認めた。また、村上は柴田元幸の東大の授業にゲスト出演した際に、十代の頃に大江から影響を受けたとはっきり認めてゐる*2 。村上はまったく大江に影響を受けてゐないといふ一時期の風説をくづすつもりで、私はウィキペディアにこれを書き加へたこともある。

 さて、本題に入る。
 私は高校二年生の頃に初めてこの文章を読んだ時、非常に興味をそそられた。大江健三郎を援用するラノベなどあるのか。見つけて読んでみたいものだ、とさう思ったのである。
 さっそくツイッターで「大江健三郎 ラノベ 尾崎真理子」と調べたら、ある人が同様の疑問を提示してゐて《もし作品名をご存知の方があればお教え下さい》と書いてゐた。その気持はよくわかった。知恵袋にもアカウントを作って質問をしてみたが、「大江みたいなやつの」とイデオロギー的に左翼の大江と正反対の右翼らしい人の、悪意をむき出しにしたそっけない返信がきたばかりで、通報したらすぐに削除されたが、結局それから回答はひとつも来なかった。
 そして三年が経ち、やうやくその答を知った。
 ふいに、尾崎真理子が思ひ浮べるラノベとはなんだらうかと思ひ、「尾崎真理子 ライトノベル」と検索したのである。すると尾崎の『現代日本の小説』といふ著書について感想が書かれた個人のサイトが見つかり、そこに尾崎真理子は舞城王太郎ラノベ作家の代表としてあげてゐるが、上遠野浩平谷川流の方が代表といはれてゐるのではないかと書いてあった 。*3
 してやったりと思った。この時やうやく私はインターネットでの情報收集のコツを摑めた気がした。情報の真偽を確めるためにツイッターでも「万延元年のフットボール 舞城王太郎」と検索をかけたところ、舞城のデビュー作である『煙か土か食い物』が『フットボール』のオマージュだといふツイートが書かれてをり、いよいよ尾崎の言ふ「大江健三郎を援用したラノベ」の正体が明かになったのである。
 なほ最近、佳多山大地の『新本格ミステリを識るための100冊 令和のためのミステリブックガイド』星海社新書)を見たら、舞城の『煙か土か食い物』について『フットボール』との共通性が指摘されてゐた。もしかしたらほかの本にも、私が見落した同様の指摘があるかも知れない。

尾崎真理子のラノベに対する認識のズレ

 ところでサイトの著者も書いてゐるとほり、はたして舞城はラノベ作家の代表なのだらうか。
 まづ、世間的には舞城がラノベ作家だと言はれても、いまいちぴんとこないだらう。舞城はメフィスト賞を受賞した講談社新本格ミステリの流れを汲む娯楽作家で、西尾維新とちがって次第に講談社ノベルスからは出さなくなった。三島賞を穫った後はそのせいか芥川賞の候補になり、当人もだんだんと純文学寄りの娯楽小説へ転向してきて、世間的にもなにか純文学作家のやうに勘違ひされるにいたった。私は、舞城は当初からラノベの系譜にあって、その衣鉢を継いでゐると思ふ。だから舞城をラノベ作家として扱ふことに違和感はない。
 しかし舞城より有名なラノベ作家はゐるし、そもそもラノベは漫画風の挿絵がついた、内容が軽いタッチの通俗娯楽小説であって、ラノベ全体からすれば決して代表とは言へない。
 私は最初、ここらへんに、尾崎と世間とのラノベに対する認識のズレがあるのだらうと思ってゐた。だが、純文学といふせまい枠組の中で見れば、尾崎のやうに舞城がラノベ作家の代表だと錯覚することはあるのかも知れないのだ。つまり尾崎は微視的な範囲でしか小説を見れてゐないと思ふ。

私の舞城に対する評価

 舞城は最近集英社ジョジョのスピンオフを書いたり、漫画の原作をやったり、「龍の歯医者」や「イド:インヴェイデッド」などアニメ脚本を担当してゐる。
 「イド:インヴェイデッド」は二〇一九年のSFミステリアニメで、Fate/Zeroあおきえいが監督し、一部でかなり評判が高かった。私も見てみたのだが、一応は筋が通ってゐるやうだけど、パプリカとインセプションを足して割ったやうな、いかにもフロイド的な、まあ結局はなんでもありな話なんだなと思った。漫画も読んだが、いかにも新本格系といふか、バカミスすれすれのトリックで、リアリストの私には受け容れがたかった。
 芥川賞候補になった『好き好き大好き超愛してる。講談社文庫)も読んだ。全篇的に恋人を喪失した話の連作といふおもむきだが、私のやうに恋愛経験も喪失体験もない人からしたらおもしろくはなく、よくわからなかった。冒頭の《愛は祈りだ》は祈りといふと宗教的で、《僕は世界中の全ての人たちが好きだ》といふのは博愛で、なにやらキリスト教めいてゐる。しかし全体の、相手を喪失する・した恋愛の話とは矛盾してをり、博愛と恋愛とを混同してしまってゐると思った。
 芥川賞の選評を見ると、私の意見は黒井千次の《全体がいかなる構造を持つかの構成意図が遂に掴めなかった》 *4といふ評に近い。石原慎太郎は《題名そのものまでが『好き好き大好き超愛してる。』にいたっては、うんざりである。》と突き放したが、一方で池澤夏樹は激賞してゐる。しかし池澤は丸谷才一と師弟関係にあり、概して丸谷と同じ反私小説路線を辿ってゐるため、架空の作り物の小説を高く評価する傾向が強い一方で、西村賢太のやうな私小説作家については選評を一言も書いてゐないなど、差別があからさまである。だから『好き好き』についても《まるで奥行きのない、いわば文学のスーパーフラットとも言うべき文体が大変に効果を上げている。》として、その人工性をほめてゐる。

東野圭吾舞城王太郎選評

 東野圭吾はエッセー集『さいえんす?』(角川文庫)に、某文学賞の選考委員をしてゐて、とある候補作に、車に轢かれた人間が電線まで跳ね上がるといふシーンがあり、ありえないと断言したとある(文庫p.95)。
 東野は整合性を重視してをり、直木賞の選評でも森見登美彦の『夜行』に《私の苦手なジャンルの小説だ。》《おそらく合理性を求めるのは野暮で、作者の描く風景が好きか嫌いかという問題だろうが、私は最後まで疑問がいくつも頭に残ったままになる読書は、あまり好きではない。》 *5と書いてゐるし、西加奈子の『サラバ!』などに整合性の疑問を呈してゐる。たとへば米澤穂信の『満願』では《最も致命的なのは『万灯』で、コレラについて完全に間違えている。コレラの主症状は下痢で、菌は便からしか出ず、しかも経口感染。通常、人から人へは感染せず、この小説のケースでも感染はありえない。》《もう一つ、『満願』の妻には借金の返済義務はない。殺人の動機も成立しない。》といった具合だが、一方宮部みゆきは《意外に厳しい評が集まり、事実関係の記述のミスも指摘されて、私は大変驚きました。》《私はこのハイレベルな短編の連打に魅せられました。表題作の「満願」には、松本清張の傑作「一年半待て」を思い出しました。》 *6などと甘い評価を下してゐる。これは東野が理系の推理作家だからこその長所であり、人文系ならともすれば無視しがちの、見習ふべき部分である。
 話を戻すと、東野がここで某文学賞といふのは、二〇〇三年の日本推理作家協会賞短編部門の時で、この、車に轢かれた人間が電線まで跳ね上がる小説といふのは、実は舞城の「ピコーン!」のことであった。このことを指摘した文章が見当らないのでここに書いておくが、私はこれに気づいた時、なあんだ舞城なら仕方ないと思った。舞城はさういふ作家なのである。東野の選評*7を引用する。

 唯一、強く推す委員がいた作品である。しかし私は反対した。物理的にどうしても承伏できない現象が出てくるからである。少し理科が得意なら、小学生でも変だと思うだろう。ミステリを破壊しようという意図は感じるが、苦手な部分をごまかすためにそうした手法をとっている、と、いじわるな見方もできる。ただし主人公の女の子はよく描けている。今回の全候補作中、最もリアルな存在だった。それだけに探偵まがいの活躍をする場面は残念だ。物語のための登場人物に成り下がっている。文体についても、村上龍氏らの先行作品があるため、特に新しいとは思わなかった。

題材としての酒鬼薔薇事件

 この「ピコーン!」は『熊の場所』(講談社文庫)といふ短篇集に收録されてをり、私は大学二年生の時に同級生にこれを貸したら「好きぢゃない」と言はれてしまった。もっともかれが貸してくれた『インスタント・マギ』(KADOKAWA、NOVEL0)も、輪姦やグロが出てくる男性本位のリョナ系のラノベで、私には耐へがたく、俗悪としか思へなかった。
 この短篇集の表題作である「熊の場所」は三島由紀夫賞の候補になった。選評での指摘通り、神戸の酒鬼薔薇事件を扱ってゐるが、選評を読むと銓衡委員の不満が窺へる。
 髙樹のぶ子は《私にとっては、少年期の性(の芽生え)と残虐性の関係が新鮮だったが、この点においては男性選考委員の賛成が得られなかった。》 *8と書いてゐる。たしかに小学生の主人公が友人のマーくんのお母さんのシャワーシーンを覗いて胸に対して反応する場面は、私も印象に残ってゐた。『好き好き』の方も、本筋の恋愛喪失うんぬんよりも、脇道の、途中で小説家の主人公が語るSF作品構想や突然土井たか子の名前が出てくるのがおもしろかったりして、《恋愛を書いていながら大演説かパロディを読んでいる気がした。》といふ髙樹の選評どほりのやうな気がした。

あまり有名ではない三島由紀夫賞

 三島賞について簡単に説明しておく。三島賞は新潮社が文藝春秋芥川賞直木賞に対抗して、山本周五郎賞とともに設立された賞だが、あまり有名ではない。
 第一回の銓衡委員は江藤淳、大江、筒井康隆中上健次宮本輝だが、大江と江藤は以前から敵対関係にあり、しかも第一回の候補作は十二作もあって多過ぎたので絞りきれず、議論は紛糾した。筒井はその模様を『創作の極意と掟』講談社文庫)に書いて、大江は島田雅彦の『未確認蛇行物体』がいいと言ったが、筒井は後半が蛇足だとして金魚のウンコだと言ったら、中上は笑って同意してくれたといふ。
 結局高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』といふ、題がフィリップ・ロスの小説から由来してゐるだらう小説が受賞した。高橋はその賞金百万円をすべて競馬に投じてパーにした。

熊の場所」の書き直し

 話を戻す。「熊の場所」は三島賞を落選したが、次回ふたたび舞城は候補になった。『阿修羅ガール』である。私は新潮文庫で初めてこれを読んだ時、また酒鬼薔薇事件を扱ってゐるではないかと思った。ストーリーは異ってゐるし、主人公も小学生ではなく女子高生なのだが、どちらにも共通して幼児殺人犯が出てくる。舞城が「熊の場所」の選評に反応したとしか思へない。つまり『阿修羅ガール』は前作「熊の場所」の選評を受けての書き直しとも言へるのだが、これを指摘した文章が見当らないのでここに書いておく(二度目)。
 『阿修羅ガール』は三島賞を受賞したが、選評を読むとほかの候補作が悪く、銓衡委員は全体的に消極的で、消去法で選ばれたことがわかる。髙樹は《生活体験の乏しい若い人が、二、三百枚の長篇を書こうとするときの困難さが、今回候補作六篇を読んでいて、強く印象づけられた。》 *9としてゐるし、筒井ははっきり《実は今回のこの作品の受賞はこの長篇の力というより他の作品に力がなく新鮮さもなかったからでもあるのだ。》と書いてゐる。同感だったのは《難のひとつはあまり面白くないことで、エンターテインメントとしてはさらに面白くないことになるが、》とあることで、私も読んでゐてなんだかあっけなく、なんでこれが舞城の代表作と言はれてゐるのか釈然としなかった。
 受賞に大反対したのは相変らず宮本輝だけで、髙樹が書いたやうに《突然巨大な活字が出現したり、「死ねーっ」が十二回連発されたり、「ウンコパ〜ン。デ、デレッデ!」などの擬音多用を良しとするわけではない》のが、奇抜なものをきらふ宮本の性格だらうとは思ふ。島田雅彦は銓衡の様子を茶化してかう書いた。

——ええかげんにせえや。
 宮本輝サンはそういって、×をつけた。それに勝る批評はあるまい。許しがたいだろう、こんな奴。おととし中原昌也に授賞させたと思ったら、今度は阿修羅かいな。輝サンはマジで怒っており、最初に〇をつけた筒井サンの首を絞めそうだった。

 しかし私は宮本が怒ったのには別の要因もあるのではないかと思ふ。
 『阿修羅ガール』には宗教の記述がある(文庫p.106)。

(略)「グルグル魔神」を描いたらしい絵も時々あって、それはなんかよく判んない変な渦巻きの絵だった。つーか明らかに酒鬼薔薇聖斗の「バモイドオキ神」やら、何とかという奴の「ジャワクトラ神」やらのパクリだった。
 他人(ひと)の神様パクんな。
 と思ったけど、そもそも宗教なんてパクリばっかなんだった。宗教心そのものもパクリだ。なんか心に穴空いた奴らがあ~やべ~何かに夢中んなりて~ってきょろきょろまわり見て、何かよくわかんないけど一生懸命空やら十字架やら偶像やら拝んでる奴らを見つけてあ、あれ、なんか良さげ~とか思って真似すんのが結局宗教の根本。布教ってのはそういうぼさっとしてるわりに欲求不満の図々しいバカを見つけてこれをパクって真似してみたらなんとなく死ぬまで間が持ちますよって教えてあげること。まあそんなふうにパクリでも真似事でも何でも、人の役に立ってたり、少なくとも人に迷惑かけてなかったらなんでもいいけど、猫とか犬とか子供とか殺して、その言い訳に、人からパクった宗教とか主張とかイデオロギーとか使う図々しいバカは死ね。

 実は宮本は創価学会の会員であるため、この記述が気に入らなかったのではないか。宮本が会員であることは、当人も文章に書いたりインタヴューで言ったりして認めてゐることだ。小谷野敦によると*10*11、同じ創価学会辻仁成芥川賞を受賞した際には、土下座してその受賞を頼んだといふ説もある。小説家と新興宗教の関係はほかにもあり、たとへば小川洋子は祖父の代から金光教の信者である。もう宮本は退任したが、つまりつい先達てまで芥川賞の銓衡委員にはふたりも新興宗教信者がゐたわけで、昨今の情勢においてかういふのはやはり考へものであらう。
 小谷野は第一二二回芥川賞の記者会見で見た宮本の印象についてかう書いてゐる*12

 それで、玄月を推したということで宮本輝が出たのだが、驚いたのは宮本の態度の傲慢さである。記者会見の司会は私も知る『文學界』の編集長がやっていたのだが、その編集長に大阪弁でからむのである。ヨコタ村上孝之みたいな感じで、「何やもうしまいか」などと言っていた。
 終わってから数人で外へ出て少し歩いたのだが、その米国人青年もいたので、私は彼に英語で「Miyamoto Teru's arrogance」に驚かなかったか、と訊いたら、彼は「イエース!」と小声で叫び、「それに一番驚いたのだが言えない雰囲気があって言えずにいた」と言ったものである(もちろん英語で)。
 当時まだ宮本輝は、好青年風の若いころの写真が流布していたので、まるっきり大阪のおっさん風なのに驚いたというのもあるのだが、後で人に話しても、「そりゃあ宮本輝ってそういう人でしょう」というような反応が多かったのであった。

 結局、覆面作家の舞城は三島賞の授賞式には出席しなかった。芥川賞で『好き好き』が落選した際には、『介護入門』で受賞したモブ・ノリオがふざけて「どうも、舞城王太郎です」と言ったが、豊﨑由美は書評で《サブかった》としてゐる*13

参考文献