ことしもプリキュアをみる(ひろがるスカイ!プリキュア)

よかった回

 今年度はけっこうおもしろいエピソードが豊富で、去年おととしより充実しておりました。こんかいも、それぞれについて、いちいち個人的な感想を述べてゆきたいとおもいます。

第5話「 手と手をつないで!私たちの新しい技! 」

 脚本がよかった。シリーズ構成の金月龍之介さんです。いままでの傾向から、正直、金月さんの脚本は不安でしたが、これはうまかった。

 コメディが生き生きとしていました。痩せたカバトンの顔が絶妙にこわい。怪物にもユーモアがあり、建物から建物へと跳びうつるくだりや、やっぱその言葉しかないと告白するところは初代プリキュアのようでいいですね。でも、なんか良質の百合を見たような気がする後味。この友人どうしの描写においては、この作品全体で、つねに露骨に違和をかんじました。

【個人的ベスト】第9話「 勇気の翼、飛べキュアウィング!! 」

 最終的によいと思える話でした。
 意外や意外、キュアウィングは、わたしにかなり好ましいキャラクタかもしれません。じぶんのなしとげたことに実感がわかず、ぽっかりとあいた口。それが即物的な実感としてよくあらわれていました。

 見た当初は根拠のなく、もしかするとエルちゃんもいつかはプリキュアに?! と想像しました。

第14話「 スカイランドへ!憧れのあの人との再会 」

 直接関係してのことではありませんが、赤ちゃんものだとおもっていたら、当時放映されていたガンダムの「水星の魔女」を思いだしたりしました。
 いちだんとヒーローヒーローしています。

【個人的ベスト】第18話「 アゲアゲ!最強の保育士 キュアバタフライ!! 」

 ずっとこういうのが見たかった気がします。

 冒頭から戦闘。すこしめずらしい気がする。
 アゲハさんが見習い保育士として、子供に接するのがたのしいと感じている。意外でもあり、納得もします。そして園児にたいして、ヒーローとはなにかを身を持って示せたこと。いままでのプリキュアとちがって、アゲハさんはなるべくしてなったプリキュアだと感じます。

 プリキュアの世界から、実際の対象年齢でありそうな園児を描くこころみは、園児との手紙のやりとりもふくめてよかったとおもいます。各キャラの動きもうまく取り入れて、なぜかヒーローというテーマに主眼を置かず、ましろとソラのともだち以上のような関係を強調する脚本が多いなかで、うまい脚本でした。
 ただ戦闘がながかったかな。そして最後はなんでやねんですが。
 キュアバタフライはおめかししてて、かわいかったです。

第19話「 あげはとツバサ、カラフルにアゲてこ! 」

 地味ながらも、各キャラの特徴をしっかりつかんで活かした脚本です。
 作画も安定していて、なんでだろうと不思議だったが、新アイテム登場回でした。ランボーグの造形も印象に残ります。(とおもいましたが、カバトンの電車のほうが印象深かったりして…… 正直、いまの敵キャラもカバトンよりは印象がうすく、バッタというのにもはじめて気づきました。)

 やはり、プリキュアたちを主眼にしてしまうなか、今期はエルちゃんをいかに脚本に組みこむかというのが大事です。

 その点、今回はエルちゃんも、エルちゃんなりの活躍をしています。脚本の井上美緒さんは子育て経験者ではないか? そう思い、しらべたところ、Twitterでお子さんを保育園に通わせている旨を述べていました。

 ところでど、放映当時は梅雨でしたが、ひろプリではしばらく晴れの日がつづいておりました。主人公がソラ・ハレワタールだからでしょうか?

第22話「 バッタモンダー最後の秘策! 」

 なんとなく虫の予感をかんじ、敬遠して当日には見ていませんでしたが、はっきりとした鬱展開でした。おもしろいといえばおもしろいのかもしれませんが、デパプリとくらべると露骨でやりすぎだとおもいます。

【個人的ベスト】第25話「 ワクワク!プリンセス、動物園に行く! 」

 「エルちゃんをいかに脚本に組みこむかというのが大事」と書きましたが、この回はまたエルちゃんにしっかりと見どころをあたえています。

 前半は動物園で、カピバラ・キリン・シマウマ・ライオンと、子供が対象であるならば、こういうたのしい教養要素は必然と考えるだけに、親子でおもしろく見られる動物たちと諸説明があります。後半で新しいアンダーグ帝国の手先が登場、これもかなり信念をまっすぐ持った好感あるキャラです。

 また作画監督のおかげか、作画は鼻梁を三日月型にしゅっと描いた顔になって、なかなかよかった。

 ふりかえってみると、今回もエルちゃんの行動に焦点があたっています。子供を理解した大人の仕事かと思いつつ、EDを見ると、脚本は井上美緒さん。納得しました。プリキュアを大人のものだけにせず、子供をも考慮するには、こういう寄り添いの視点がまったくもって必要不可欠なのだとおもいます。

第26話「 テイクオフ!飛行機でつながる想い 」

 海外に居住するましろさんの両親が、来日する。それに合せて展開するストーリーに、加えて、親子関係を際立たすことができればよかったのですが、最後は駈け足に、サッサと対面の模様が済んでしまいました。惜しいつくりですが、悪くはありません。
 戦闘でツバサくんが、解法をみつけるように考え抜くシーンが印象的でした。

第27話「 ミラーパッドでワクワクレッスン!? 」

 冒頭の会話はそれぞれのキャラの特徴があらわれていて、すぐに巧みな脚本だと気がつきました。

 全員に見せ場を与える構成の妙があります。ストーリーに関らない間隙の回ですが、ミラーパッドに吸い込まれるという、これから自由な設定をしますよという前提を明らかにしながら、その活用の仕方は多少強引ですが、今期のソラーましろ、あげはーツバサの関係を強調させていました。前者は以前にも露骨に示されていましたが、後者については今作でようやく私も気づいたほどです。
 そしてエルちゃんとおばあちゃんにもちょっとした見せ場があり、しかも4人のわざもすべて見せてくれて、よく気を配っています。

 さぞかしキャラクターをうまく捉えられるひとだと思い、だれだ、だれだと率先してEDを見たら、前作デパプリにひきつづいて、伊藤睦美さんでした。

【個人的ベスト】第29話「 ソラと、忘れられたぬいぐるみ 」

 さすがに秀作です。この話は見事で、今期の中でも上位に入ります。

 予告の印象のままホラーテイストかと思いきや、意外な方向に展開します。
 キャラの性格もぶれておらず、しかもたいへん意欲的な演出で、つたない作画を優に補完するだけの力を持っていました。敵の攻撃もこの三年間見てきたなかでいちばん斬新であり、それにたくみな演出が拍車をかけています。

 もう一歩踏みこめば名作の域に達したのではないかと思いましたが、時間の制約もあり、それでも十分秀作でした。

第30話「 ひろがる海!ビーチパラダイス! 」

 良作画&良脚本です。
 夏を満喫するだけの話ですが、おもしろい。作画できっちりマンガ・アニメ表現を使っていて、しかも崩れません。プロです。

 小ネタとしては、映画東映のOPロゴを模した切替りカットが登場します。
 脚本でも、カナヅチの主人公を設定することで、ただ遊泳するだけでない、描写の幅をひろげています。そして戦闘。海上での戦闘もめずらしく、敵のかたちも特徴も、海に合致しています。

【個人的ベスト】第31話「 新たな脅威! エルちゃんを取り戻せ! 」

 エルちゃんが!!!!回。

 今回はせめています。メインストーリーにつながる回といえども、前半はちゃんと日常やってます。エルちゃんぷち反抗期、からの写真館。その間隙に、さらばミノトンがあるのですが、ミノトンと人間の関わりも小ネタながら掘り下げる。なんだか退場するミノトンが惜しいような気がします。そして写真館のまさかの衣装(笑)。ここがいちばんおもしろい。どのプリキュアが好きー?と言われて、エルちゃんがなんと答えるのかドキドキいたしました(笑)。せりふがよく描けている脚本です。

 しかし後半になると、なぞのシン敵キャラが登場し、エルちゃんも奪われる。通常であれば、前半と後半のギャップにひえーとなりますが、まったく違和感がない。メリハリがつきながら、シン敵の展開にわくわくします。ミノトンと同じくらい、いやそれ以上に魅力的ですらあり、それも、前半の日常があるからこそ、エルちゃんとプリキュアたちの関係がいっそう意識させられました。

 秀作ですね。どこか大人向けの作品に変貌してしまったように、プリキュアうしの思いも曲も荘厳で、さながらハリーポッター(?)でした。

 と思ったら、?!?!?!?!?!?!?!おい嘘だろ!?!?!?!?まじかよ?!?!?!?!?!?展開?!!!!!!???おいおいおいおいおいおいおいおいおい!!!
 飛ぶぞ!

【個人的ベスト】第35話「 助っ人ソラ!エースとヒーロー 」

 野球は、よく知りません。高校のころにやって、それっきりです。阪神道頓堀も、巨人原もわかりません。

 この回は中学の女子野球を舞台にした快作です。脚本は井上美緒さん。
 メインは試合ではなく、この脚本家らしく、人間の機微に焦点が当っています。たまかな――ピッチャーの四宮たまきと、キャッチャーの大木かなめのふたりの軸(このふたりに、わたしは初代の影を重ねてしまいました)。

 たまきが肘を怪我している――しかも手術が必要――それはスポーツものにはよく見られる設定ですが、プリキュアと掛け合せることで、今回、とあるテーマにプリキュア特有の説得力をもたらしているとおもいました。主人公のソラも、登場時は運動万能、ヒーロー志望のちょっぴりへんな子だったのですが、今回は相似的な面があるたまきに対して、その説得力を担っています。

 出だしのすこししめった空気から、良作の思いが喚起され、爽快感あるしめくくりも、わたしは好きでした。今期いちばんの快作かもしれないという、いつもの大言壮語すらいいたくなります。

【個人的ベスト】第36話「 あげは、最強の保育士失格!? 」

 通じ合う心。

 さまざまな場所を転々としてきて、幼い頃から固定した友人がいません。しかしそれで問題ないとおもっていますし、いまに満足してもいます。

 この回は保育園のお話のつづきとして、あげはさんの感情が流露していました。脚本は伊藤睦美さん。
 園児たちのいきいきとした感情のはざまで、突如、引越しに直面してとまどう男児。その、前回登場したたけるくんの引継ぎかたも自然であれば、あげはさんの離ればなれになった姉妹のことも自然に絡ませて展開する物語は、対話によってのみしか解決し得ませんでした。
 その対話における演出が、まず巧みだった。あの重ね合った演出シーンは、実際に見てほしいほどです。

 そして少年こと、つばさくんの存在を活かしながら、制作側によってさらなる飛躍がなしとげられたようにおもいます。戦闘の作画の秀逸さは、制作の本気をうかがわせるものでした。

 最後の、へんしんしたバタフライが起こす特異なシーンも、いままでのプリキュアには見られなかった、まれにみる別離ではないでしょうか? まるであらたな邂逅の予感でもあるような……

第37話「 ふたりは仲良し♡ 思い出の木! 」

 秋のいなか。

 今回は、郷愁という言葉がふさわしいとおもいました。
 脚本は加藤還一さん(「テイクオフ!飛行機でつながる想い」の回など)。キャラクターや状況の描写に、現実から誇張をくわえることで、その様子がよく伝えられることがありますが、これは全体的に控え目で、一見穏当でした。しかし、むしろ本当に自然な流れがつくりだせて、静謐な完成度ともいうべきものがありました。

 和気あいあいとしているのを見るのは、ごく自然の仲のよさがあらわれていて好きです。今回は、特にその空気感がうまくかもしだせていました。
 そのあいまに、ごく自然に、ましろとあげはのなれそめが探索という仕方ではさまれる。そのなれそめが、ちいさな年齢に違和感のない、自然な郷愁としてよみがえってくる。しかもその郷愁を、戦闘中にも活かしていました。自然なようでいて、じつに巧みだとおもいます。

 五人の人間性も取りこぼさなければ、書くべきところはしっかり書く。完成度の高さは随一かもしれません。

 ちなみに、冒頭をよくみると、ましろさんは手首にシュシュをつけているのがわかります。

第44話「 大きなプリンセスと伝説のプリキュア

 けっこう重要なはなしで、金月氏のメリハリのあるシナリオ展開のうまさがあらわれています。予告をみて来週の展開が気になりました。

 しかし、実際のメインストーリーのこの後の展開としては、平坦で、単調的なところも多く、端緒として興味をひかれたにすぎません。

あとがき

 女児むけといわれるアニメーションで、今作は慣行を破ったと、放映まえから話題になっていました。それは、主人公らをいままで少女に固定した暗黙の了解からの転換、具体的には少年の登場によって、非難・歓迎ともども喚起されました。

 わたしとしては最初、静観の立場にあり、見終えても、なにひとつプリキュアの世界から逸脱することのないと感じたのみです。むしろ少年がじつは鳥の変身だと、制作側の保身さえ邪推されました。

 しかし反対派の憤懣は、ちょうど身近にいた女性の意見、インターネットの意見を耳に・目にしても、逆鱗に触れたと形容したくなるほどのものばかりです。

 幼児や児童が見ると仮定すれば、ナンセンスにしか思われない、それこそ大人のエゴまるだしの、といいたくなったほどで、その子らの親がみるとしても、大きな問題はないはず。特に断定はできぬ勝手な印象づけでは、幼児から見つづけてそのまま大人に育ったファンの、急激な変化について行けぬ困惑といったような……

 

 さて、今作のメインストーリーについては、終盤においても平板な、というほかに語ることはありません。タイトルのひろがるスカイに沿っているのかどうか、よくわからない内容を連続で見、さすがに倦怠に徒労するようでした。

 かえって、各数話にしぼったエピソードのほうが見がい・語りがいのある昨年・一昨年と変りなく、その水準はむしろひときわ高くなりました。それぞれに注目していえば、よくできています。

 

 当初の期待としては、ひろがるスカイとは、要するに「HeroGirl」と「ひろがる世界」の語呂であり、つまり子供たちの将来を肯定的にとらえることのメタファではないか、そして、赤ん坊のエルちゃんを中心に据え、この一年を通してエルちゃんの成長を描くのではないか、とおもいました。

 しかしその予想は、結果として的外れとなりました。
 各エピソードは将来を示唆していますが、メインストーリーをつうじては、ただのヒーローアニメ展開をなぞる印象です。主人公の、ヒーローになりたいという特異的な思いにも説得されたというためしはありません。
 また、幼児のエルちゃんも、みずから立脚するかたちで即席的に成長し、内面はそのままで大幅な成長はえがかれないままです。せっかくへんしんして大きくなっても、その形態が周囲との会話を誘発するふうにはならず、ただ戦闘用にひっぱりだされるだけであったのはもったいなくありました。

 

 また、金月氏の担当するキャラクター描写においては、特にソラとましろの関係は大人の視聴者のこちらがまっかになるような、現実からは疎外されたぎこちなさにあったとおもいます。形容のしかたによっては、友人以上の関係に思えるもので、過剰だとつねにかんじました。
 あげはとツバサにも、なにかつながりのあるような描きかたをしていましたが、具体的にどのような関係かは明示されず、主人公の影に埋没していたようにおもいます。

 

 結果としては今作も一長一短あり、初代のように、全体が確固とした構成で、キャラクターの内面や外面をリアリティを込めてかくというふうにはいたらず、そこはいつも通りです。

 むしろ初代との差のつけ方において、そういった手法が取られており、飽きられずに済んでいるといったほうがただしく、わたしとしては物足りなくはありますが、仕方のないことです。そもそも、こういった意見を提出することがいったいどれだけ有効であるのか、読者としてはそれこそ《幼児や児童が見ると仮定すれば、ナンセンスにしか思われない、それこそ大人のエゴまるだしの、といいたくなった》でしょうから……

 

 さて、来期の「わんだふるぷりきゅあ!」ですが、わたしとしては見たい人がみればいいという投げやりさで視聴を逡巡しています。この3年間プリキュアをみて、もう批評する役割は満足した気分もあり、読まねばならぬ本をまえにしてスゴスゴと引き下がるといった言いわけもあります。

 なにより、プリキュアにたいして偏見がそがれたことが重要であり、見ようによってはプリキュアアンパンマンも、大人向けのエンターテインメントをはるかに凌駕する内容ですから、莫迦にしてはいけないということを了解できた成果をまえに、ひきつづき古典や読みのこしの読書にもどるつもりです。

友人へ――「プリキュア、やっぱり僕より全然好きじゃん」への返答――未来への方向づけ

 高校時代に男のプリキュア好きとしてからかっていた友人から、思ってもみない言葉がかえってきた。「プリキュア、やっぱり僕より全然好きじゃん」というのだ。
 自分はすこしく困惑した。この三年間、ナントナクでトロプリから見始めた習慣を惰性的につづけているとはいえ、キャラクターが好きというのでもなく――〈推し〉もいないし――、幼さを好む趣味もない。ただ、嗜好や性癖をなるたけ除外した眼で見ようとして――思い上がりだが、それは「公平」という語を意識させるようだった――、くだした判断にすぎなかった。
 この頃はアンパンマンも見る。出先でスマートホンを片手に見ていると、興味津々な後輩が近寄って、見ているのはここで先輩だけですよと微笑された。私もいっしょに笑いながら、でも莫迦にできないんだと言ったら、いえ、莫迦にはしてません、わたしも気が向いたときは見ますといわれた。
 実際、アンパンマンのアニメーションはTV版であれば一話十分で終るし、映画も五十分程度の短い気楽さ。ヘタな大人向けアニメーションを見るよりは(そんなものがあるとして、だが)、しっかり設定のある子供向けアニメを見たほうがおもしろいと考えて、そういえば、と思った。われわれはハリー・ポッター指輪物語やを本格ファンタジーだと認識している。それは正しい。しかし、アンパンマンだって立派なファンタジーではないか?(と自明のものに、いまさら気がつくようにして。)

 なぜ子供向けのアニメーションにこうも惹かれるのか?
 ――子供向けであろうが、大人向けであろうが、私がつねに関心を向けてきた創作物には共通点がある。それは、人間に寄り添う姿勢だ。

 おととし、深夜アニメを見ずにアレコレいうのはよくないと、夜中、布団から這い出すのではないが、いくつか見た。しかし、たいていは小説家・髙樹のぶこの言う、生活体験の乏しさからのような絵空事を感じた。そしてその、なかば義務的な意味の行動が転じて、みずから積極的に乗り出すということにはならなかった。
 以前であれば、森鷗外の「追儺」のとおりに、《小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ》と、小説は人間を描かねばならぬというせまい、古臭いとおもっていた見識に反撥すらしていたのが、いま、人間存在を描いた創作物に惹かれる自分を否定できない。柳美里の本『人生にはやらなくていいことがある』を読んだときの、生きかたの手がかりを得ようとして、ほかのひとの人生を読むのではないかという考えが、ふたたび迫ってくる。
 つねづね、真に人間を描こうとする創作者は、心的外傷や欠落を抱えている(た)と、根拠は少いまま、共通項のようにinferenceすることがある。
 たとえば太宰治は、中高生の頃の周囲の女子の、マンガアニメ由来のアイドル的受容がモデル当人より凌駕しているのがイヤで、敬遠してきた。有名な「人間失格」も、ぴんとこなかった。
 しかし最近になって反省するのは、その巧みさに舌を巻いたからだ。たとえば「ろまん燈籠」も「女生徒」も、ユーモアを持ちながら、人間観察が利いた描写に魅力が大きく、明るくなる。妻だった石原美知子の『回想の太宰治』を読んで、太宰が今でいう陰キャラと変らないことがわかり、むしろ親しみさえ抱いた。太宰は青年の頃から生きることに迷いがあった。それが幾度もの未遂につながった。
 大江健三郎は――これも人間に深くフォーカスした敬愛する作家だが――、大宰を評してこういった。

 たとえば太宰治にしても、太宰の書いた主人公はどれも、現実にそんな人間いたはずはないですよ。あれは太宰治が「太宰治」というフィクションの人物を作って、それを小説に書いていったわけです。かれのどんな小説を例にとってもいいけれども、その最後の方の作品の『人間失格』。あのなかでかれは本当に太宰治的な人物を、フィクションとして完成させている。ところがそれでいて、どこかで律儀に現実の自分という人物と辻褄を合わせている感じがある。短篇『桜桃』なども、自分と主人公の間に直接のつながりを書きつけてやろう、それを書いておかなければならないという、まさに私小説的な律儀さがある。そうやって小説を書き続けていくと、現実の自分と書かれた太宰に、最終的な辻褄を合わせるには、結局、作家は自殺するほかないですよ! そして、案の定、自殺してしまう。これでは自殺するほかない、と思い始めながら、それでもそういう小説を書き続けていく状態は、それは精神的に健康ではないです。誰かが太宰治に、「君が書いている作品と君の実生活は違うんだ」と確実に納得させて、かれを文壇から三年間隔離してやっていれば、太宰は死ぬ必要はなかったと私は思います。その後になって、自分が身辺のモデルからフィクションとして作った人物を、あらためて意識して採用した小説を書けば、中年以降の独特の作品が出来上がっただろうと思います。それは相当なものだったでしょう。

大江健三郎・尾崎真理子『大江健三郎 作家自身を語る』新潮文庫

 私は、大宰の小説の巧みさはおのれという事実の人間性なしには、なしとげられぬものだとおもう。小説中の分身に、最終的に合致させる行動をとってという読みのスルドさ、恐しさ。そしてそれが太宰を破滅させもした。
 私が人間存在を描いた創作物に惹かれるのも、自分に心的な傷があるからだとおもう。そしてその傷を埋める糧として、創作物が機能しているとおもう。
 プリキュアアンパンマンには、そういう狂気的な献身的創作姿勢はない。(なくていい。)しかし作り手は、子供たちがみずからを投影して見るキャラクターに、将来的に、合致する行動をとってほしいと願っているのじゃないか? 同様に、なんであれ、ひとを根本的に勇気づける創作は、ひとに前向きな人生の手がかりを与えるものじゃないだろうか?
 すべてがすべてとはいえないが、私は一部の子供向けアニメに、子供たちに未来の手がかりを示唆する姿勢を感じた。それが私の見たプリキュアであり、アンパンマンだった。
 そしてその頂点に君臨するのが、今のところは高畑勲の「赤毛のアン」と「母をたずねて三千里」だとおもっている。これらのリアリズムの人間のリアリティは、もはやつくれまいとおもわせるすばらしさだった。
 私は特段プリキュアアンパンマンが好きということはなく、批判することさえある。しかしそれでも一目置いてもいる。なぜなら、あらかじめ子供向けだと差別しないで、あるいは先入観で区別していたものが、見た結果、他の作品とおなじ土俵まで引き上げられたから。
 そしてひとり、静謐に励まされもしたから。

小説の勉強

 二〇二三年一月、佐藤厚志に芥川賞が授与された。かれはインタヴューで、大江健三郎の文学論『新しい文学のために』が英文科の課題として出されたことが小説執筆の契機としつつ、しかし実際に大江の小説を読むことがいちばん小説を書くうえで参考になったと語っている。大江は卓越した作家だった。
 小説指南に虎の巻はない、といわれると、困るだろうか? 森鷗外は「追儺」という短篇小説で《小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ》と書いたが、そういう投げ出しかたは初心者にとって困る。
 そして、困惑の時期は私にもあった。上手な文章を書きたいと中学高校生の頃にのぞんで、谷崎、井上、丸谷と、『文章読本』を立てつづけに読んだ。残された三島『文章読本』も、つい先達て読了したばかり。
 しかしこのような『文章読本』をひたすら読んでも、申しあげられるのは「あまり役に立たない」ということである。小説を書きたいなら、小説を読み、実践する方が何倍も得られる。実際これらの『文章読本』は、一般向けと銘打ちながら、どこをどうして、中身は高度な技術の求められる。たとえば、丸谷才一松浦寿輝が群像に書いた通り《英米系の教養に偏し》ている。三島由紀夫文章読本は、文飾に主眼をおいて、内容にこだわりがない。
 ということでムセキニンなようだが、あらためて、小説指南に虎の巻はない! どう書けばいいかわからないで困る小説初心者には、口を酸っぱくして、たくさん読め、学べ! と言いたいのだ。

2022年度に読んだ秀作・凡作・駄作大賞

 2022年度(2022/4/1~2023/3/31)に読んだ本のなかで、秀作・凡作・駄作だと思った本を3つづつ挙げる。その本の発表時期が2022年度とはかぎらない。

秀作大賞

1等賞 大岡昇平『現代小説作法』ちくま学術文庫

小説を立体的に捉へた名著
 私は、谷崎から井上ひさしまで、文章読本のたぐひは一通り読んだ。
 では文章についてよくわかったのかといふと、さっぱりわからなかった。谷崎のは比喩がくどく、文章のことなのに、三味線や芝居、釀造酒まで出てくる。三島のは、うはべだけ飾り立てることに主眼をおいて中身がない。丸谷のは、ヨイショ、ドーダと持ち出した名文が、古文さらには祝詞まであって読めない。井上のは、いままでの文章読本を論じるといった体裁。どれも気楽に読めるものではなかった。
 いまでは、それぞれ妥当な批判があるのを知ってゐる。松浦寿輝が「文學界」に書いたとほり、丸谷は《英米系の教養に偏し》てゐる。大江健三郎が書いたとほり、三島はアメリカの葬儀社のやる死体に化粧である。
 要するに、小説家の書いた文章読本は、藝術文に向きすぎるのである。
 では、それらが小説作法として役に立つのかと問ふと、さうとも思へない。もっとも筒井康隆の『創作の極意と掟』講談社文庫)は、筒井の実験的な工夫が垣間見えておもしろかった。しかし、これも中身より技術的な傾向が強すぎるので、小説全体を知るには不向きである。

 しかし、大岡の小説作法にはそれらの欠点がない。より実際的に平明に書かれ、あらゆる点を踏まへて、小説をつぶさに立体的に捉へた、優れた小説作法である。大岡が小説を東西問はず、ひろく丹念に勉強したことを窺はせる。
 展開される小説に対する見地が的を射てゐる。たとへば、最終章の「要約」から挙げると(p.245)

 すべてを知り、すべてを見下す作家の特権的地位というものは現代では失われています。文学における真実の問題もおびやかされています。小説家がいくら社会を描くと威張っても、彼の告げるところは、専門家から見れば、常に疑わしいものです。文章と趣向の必要から来る歪曲は、対象の忠実な「再現」とはいい難い。「彼がこう思った、こう感じた」と書いても「うそをつけ。実はあゝも、感じたろう」といわれれば、それに抗弁する手段は小説家にはないのです。

といふ具合である。現在、社会正義テーマ小説が跋扈するなかで、この指摘は鋭い。
 地味な題名と装丁のために埋もれてしまってゐるのが、実に惜しい。

2等賞 渡部昇一『知的生活の方法』講談社現代新書

知的昂奮の書
 1976年からのベストセラー。いまさら取りあげても「はいはい知ってるよ」との声が飛んできさうで忍びない。また『知的生活の方法』を読んで、知的昂奮を味はふといふのもなんだか妙なやうだ。
 しかし、おもしろかったのである。いはゆる自己啓発書のたぐひだが、いい本だ。
 知的生活をめざす者がないがしろにしがちな習慣について、あれこれ忠告が加へられてゐる。たとへば、知ったかぶりをする子供は進歩がないとか、カントの規則正しい健康的な生活と血圧とか、見切り法とか、知的生活と縁のない配偶者とか。なるほどと感心した。
 しひていへば、後半、精神分析を持ち出してきてオカルトめいたり、ワインとかビールとかこだはったりして、いささか変ではある。また、知的空間のための建築の部分は大規模すぎてあまり現実味がないが、まあ理想を高く持てといふことだらう。

 本書はもっぱら1873年に刊行したP・G・ハマトン『知的生活』によるところが大きい。(後年、渡部は講談社学術文庫から翻訳を出した。)すこし冗漫だが、こちらもおほいに参考になる名著だ。

 ちなみに本書のレヴューを見たら、書きぶりが女性蔑視で不愉快だと書いた人がゐた。しかしそもそも渡部はまへがきで、

 また、私が男であるところから、女性の立場は考慮していない。知的生活には男女の性別のない共通の面があると思うが、また具体的には相当違ってくる面があるのではないだろうか。男である私が、なまじっか女性の立場にもなってみるよりは、男の立場から書いた方が、女性に対してもかえって参考になると思った。知的生活をこころざす女性のために、女性の方が書いたものがあってもよいであろう。要するに私は、自分が実感したり体験したりしなかったことは書かないことにしたのである。

とあらかじめ断ってゐる。まさか、この文章を無視してまで女性蔑視だと主張するのだらうか。

3等賞 佐藤厚志『象の皮膚』新潮社

象の皮膚

象の皮膚

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打倒、村田沙耶香なるか
 2021年刊行の小説。ユーモアを含めた洒脱な文体のリアリズム純文学である。主人公はアトピーを持った女の子。人間関係の雰囲気がひしひしと伝はってきた。学校の空気感、家族の軋轢に生々しさを感じる。私のつね日頃、感じてゐたことをそのままおもしろい小説にしたやうだった。震災文学ではなく、現実の人間関係と心情の機微を書いたリアリズムとして捉へたほうがいいだらう。

 「文學界」の芥川賞受賞エッセーで佐藤は、デビューからこの小説を書き上げるのに3年を要したと書いてゐた。純文学は厳しいので、あと二三作で賞が取れなければ途絶えると編集者に言はれた。そのプレッシャーのなかで、『コンビニ人間』を目標に、打倒村田沙耶香を掲げながら書いた2作目が『象の皮膚』であり、三島賞の候補になったものの、受賞をのがした。しかし、つぎに書き上げた『荒地の家族』は芥川賞を獲った。力量の高さがうかがはれる。小谷野敦週刊読書人の対談で言ってゐたが、次作が楽しみである。(2023年3月27日現在、河北新報朝刊で「常盤団地第三号棟」を連載中。)

kahoku.news

 小説を書くようになったきっかけと言えるのは、大学の授業で大江健三郎さんの『新しい文学のために』を読んだことです。授業では適当にレポートを書いただけでしたが、その後、何か引っかかって読み直したら、これから小説を書こうとする人への呼びかけが自分の中で響きました。
 それから大江さんの小説を読むようになり、さらに中上健次村上龍村上春樹、そして深沢七郎なども読むようになりました。あるとき、古本屋で町田康さんの『夫婦茶碗』と出会って、こんなに面白い小説家がいるんだと驚き、『告白』には衝撃を受けました。

www.shinchosha.co.jp

 大江健三郎から影響を受けたと言ってゐるのにも共感する。
 そのあと、受賞作が載った「文藝春秋」のインタヴューを読んだら、実は佐藤自身もアトピーであり、その体験が『象の皮膚』には含まれてゐると言ってゐて、おどろいた。『象の皮膚』はほとんど私小説なのかもしれない。主人公・凜は仙台で書店員をしてゐるが、佐藤も仙台のジュンク堂で書店員をしてゐる。この小説の凄味はそこに由来するのだと、小谷野の『私小説のすすめ』を読んだばかりの私は思った。

選外(紙幅の都合上だが、秀作)

高橋泰郎『大坂堂島米市場』講談社現代新書

 徳川時代の経済史の片鱗を知るのに、かっこうの入門書。
 少くとも17世紀までには米市場がはじまり、明治まで、いはゆるコメの先物取引や架空取引がつづいた。徳川幕府は、経済のために市場を望ましい状態にしようと、試行錯誤しながら躍起になった。また、人々も米市場の値をすばやく知るために、専門の飛脚の業者や、旗を用ゐた通信、さらには個人で鳩を使ふ人まであらはれた(その後、幕府は鳩などを禁止)。
 と、まあ徳川時代には世界的に見てもめづらしい経済や、それにまつはる工夫があったことがわかる、おもしろい研究である。

石原慎太郎『弟』幻冬舎文庫

 いままで読みもしない癖に豊﨑由美と同じく、傍若無人の逸話(たとへば、芥川賞の選考で、円城塔への受賞が気に食はず、椅子を蹴って退出した噂など)だけで、あるいはイデオロギー的に反対の立場だったので石原を食はずぎらひしてゐた。
 しかし、これを読んでそんな自分を反省した。ベストセラーだが、おもしろかった。
 裕次郎を知らない私でもおもしろい。すごい逸話が出てくる出てくる。津川雅彦を発掘したのが石原だったとは知らなかったし、映画「黒部の太陽」のハッタリは真に迫るものがある。

 もしも、あなたの知らない石原について知ってみたいなら、電子書籍『対談 「政治家・石原慎太郎」を大嫌いな人のための「作家・石原慎太郎」入門』(新潮45eBooklet)がおすすめである。樋口毅宏は《半年以内に、中国と戦争するね。》などと、政治オンチなのかと疑ひかねない変な発言があり、口も悪いが、中森明夫はわりと的を射てゐる。新海誠をほめてゐることや、皇室を無責任だと考へてゐることなど、意外に思った。政治家の石原と小説家の石原が相容れないといふ中森の指摘にも納得する。

東村アキコ「かくかくしかじか」マーガレットコミックス、集英社

 東京工芸大学芸術学部マンガ学科教授の伊藤剛のツイートを見て、おもしろさうだぞと思って読んでみた。自分のいままでの漫画家としてのなりたちを描いた私漫画だ。
 強烈な過去である。そして昔を思ひ出してノスタルジーにふける話ではなく、思ひ出すのがつらいけれど、先生の言葉を背負って前へ前へ進まうとしてゐる作者が浮かびあがってくる。そこもいい。

 

凡作大賞

1等賞 村上春樹『沈黙』集団読書テキスト、全国学図書館協議会

中高生向けの道徳小説
 この小説は「他人の意見に踊らされて集団で行動する連中」といふ存在にたどりつく以上のことがない。学校でいぢめられたりして人間関係のつきあひに不快な思ひをした者なら、だれしも一度は真面目に考へたことがあるのではないだらうか。
 私もそんなことはとうにわかりきってゐたので、『世界の終り~』を読んだ時に感じた退屈さがふたたびよみがへってきた。
 なんとなく筋が予想できてしまふのである。むしろ、大沢さんがなぜ僕にそんな話をしてくれたのかといふことのほうが気になる。似たテーマでは『コンビニ人間』のほうがおもしろかった。

2等賞 麻耶雄嵩『友達以上探偵未満』角川文庫

中途半端な百合
 私は最近、いはゆる百合ってなんなのだらうかと考へてゐるのだが、よくわからない。レズビアンとなにが違ふのか。一方「リコイス・リコイル」なぞを見ると、男にとってホモ・ソーシャルに相当するのが、百合なのではないかとも思ふ。それで早川書房SFマガジン」の百合特集に触発されたであらう、河出文庫の『百合小説コレクションwiz』を買ってみたのだが、なんだかやはりレズビアンっぽかった。あとで気づいたのだが、このアンソロジーにはリコリコの原案者のアサウラもゐた。

 それはともかく、こちらの『友達以上探偵未満』は中途半端である。
 麻耶雄嵩は『本格ミステリ09 二〇〇九年本格短編ベスト・セレクション』講談社ノベルスに載った『貴族探偵』の「加速度円舞曲」がおもしろかったのだが、これはおもしろくない。推理当てなのでネタにひっぱられ、ストーリーはどうでもいいタイプの小説である。
 最終話で上野あおの伊賀ももに対する独占欲が露呈する。悲しい姿は見たくないだの可愛らしい寝顔だの、唐突にさういふ表現が出てくる。百合にしたいのが露骨なのだ。麻耶の傾向からしても、さういふ恐しさを狙った可能性があるが、しかし恐しくもなんともない。

3等賞 佐々木俊尚『現代病「集中できない」を知力に変える読む力 最新スキル大全』東洋経済新報社

私にとっては当り前のことが多かった
 本書の白眉は、散漫力を利用せよと主張する最終章にある。またほかの章で紹介してゐた、RSSリーダーやツイッターのリスト機能、キンドルなどのツールも参考になった。
 しかし、それ以外の内容は集中力についてよりも、情報リテラシーについて多く書いてある。信頼できる情報を得る方法については、私にはわりと自明だった。6、7章は外山滋比古『思考の整理学』にも通じる点がある。
 気になったのだが、著者は無自覚な神秘主義みたいである。コビトさんなどと書いたり、折口信夫を引用したりしてオカルトめいてゐる。それが信頼できる情報か、著者の言ふ方法でまっさきに確めるべきではないか。
 あとドストエフスキーを名著としてゐる点も気になる。さきに挙げた大岡昇平の『現代小説作法』では、ドストエフスキーに対していくつか疑問が呈されてゐて、どれも妥当なものだ。小谷野敦キリスト教的な小説だとしてゐる。
 なほ、p.238の記述《年配の委員たちに選考されるため古くさい価値観の小説が多い芥川賞受賞作の純文学》はおほむね正しい。
 しかし要点だけ絞ればもっと短くなるのに、なんだか水増ししてあるやうな気がする。

選外(紙幅の都合上だが、凡作)

ちほちほ『みやこまちクロニクル コロナ禍・介護編』トーチコミックス、リイド社

身辺雑記に落ちついてしまった
 ちほちほさんの漫画は、受賞した作品が私小説ふうで、様々な人間関係にリアリティがあっていい。いはゆる私漫画である。受賞作は震災のことを書いてゐるが、実直に日常が書いてあって、どれも粒ぞろひだった。
 しかし私小説私漫画の欠点としては、事件を離れて書くネタに困り、平凡な日常を書き出すと、平凡な作品になりがちといふことが挙げられる。小説で冠婚葬祭を書いてもおもしろくないのは、冠婚葬祭がありふれた、他人にとっては退屈なことだからだ。
 これも連載開始後の作品はどうも平坦でいけない。主に自分と両親の話の身辺雑記になり、私漫画の迫力が失せてしまった。
 思ふにこの人は連載ではなく、気ままに描く方がぴったりしてゐるのではないか。

 

駄作大賞

1等賞 奥泉光ゆるキャラの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3』文春文庫

ミステリとしてはどうでもよすぎる
 小谷野敦『このミステリーがひどい!』飛鳥新社に、奥泉光は『吾輩は猫である殺人事件』が頂点だが、桑潟幸一シリーズは肝腎のミステリなんかどうでもいいほど、モデル小説でおもしろかったと書いてあった。なんでも丸谷才一やそのほか大物が、変名で登場するのだといふから気になった。
 そこで、シリーズの最初の巻は品切れだったので、その続刊を買ってみたのだ。
 しかし、このシリーズ3作目はまったくモデル小説ではなかった。北村薫が得意とする日常の謎ならぬ、大学の日常の謎が展開される。
 しかし、まあつまらない。冒頭のベネッセならぬペネッセの部分はふふっと笑ったが、それだけで、全体的に退屈で冗漫。ミステリとしてもどうでもいいやうな謎で、解決まで読んでも、だからなに?と徒労に終るばかり。
 コスプレ大会の場面で、唐突に艦これなどを出してくるのも、さうだ出してやらうといふやうな、なんだか中年がサブカルチャーや若者に媚びる感じがする。
 解説を見たら、翻訳家の鴻巣友季子がこれを『坊つちやん』だと評してゐた。漱石好きの奥泉だし、しつこいほどの渾名はたしかに坊つちやんを意識してゐるのだらう。しかし、決定的な違ひは『坊つちやん』ほど爽快ではないことである。

 ところで、鴻巣も褒め批評一辺倒の人と化してゐ、さらにポストモダンだのケアだのとやってゐて、私はまったく信用してゐない。文藝春秋の『2023年の論点100』の「ノーベル文学賞村上春樹以外の日本作家が受賞する日」を読んだら、

 〔註。スウェーデンアカデミーは〕あくまで作品本位だと。作家の思想発言、時勢時流などは一切関係ないというのが、近年の一貫した回答だ。
 とはいえ、である。わたしとしては、今後はマイナー言語圏の、女性(とトランスジェンダー、ノンバイナリーを含む)作家に、有利な風が吹くことを願っている。

と書いてあって呆れた。作品主義ではなく、作家主義ではないか。
 作家の性別がなんだらうが関係ない。作品がよければ、その作家が男性だらうが女性だらうがトランスジェンダーだらうがノンバイナリーだらうが、ノーベル文学賞が授与される可能性はつねにあるのだ。
 それなのに、作品よりも作家の性質を先行する――文学賞において、作品と関係のない事由が優先されるやうなことがあれば、もうそれは政治的な意味合ひにおいてでしかない。冷戦時代に反ソ連の作家に与へろと言ってゐるやうなものだ。実際は、反ソ連だらうがソ連だらうが関係ないのである。

2等賞 宮崎哲弥『教養としての上級語彙』新潮選書

読んではいけない本
 語彙力本のひとつで、語彙力本自体はあまり信用に置けぬものだが、著者が宮崎哲弥なので読んでみた。ボキャ貧に役に立つらしい。
 著者は子供のころから語彙を高めるための工夫として、ノートにむつかしい単語を書きつけてきたといふ。この本もその過程から生れてきた。
 しかし、どうもその単語が文学的すぎるのである。濫觴はまあまだしも、耳朶だの、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやだのなんて、いつ使ふ機会がおとづれるのだらうか。一生おとづれまい。いくらボキャ貧でも、こんな衒学趣味の「上級語彙」は無用の長物である。
 斟酌とか剴切とか蓋然性とか、あまり使はないけど有用な言葉――もっと本書でいふ「使用語彙」を増したほうがいい。
 だいたい「上級語彙」といふ言ひ方からして、まるで「下級語彙」もあるやうだが、本質的にはどちらも気取った言ひまはしにすぎない。こんな上級語彙を使はずに、わかりやすく物事を伝へることを基本に据ゑてください。

3等賞 千葉雅也『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』星海社新書

あらゐけいいちの絵にだまされてはいけない
 文章が書けない書けないと悩んでゐる哲学関係の4人が集って、wordではなくアウトラインプロセッサを使ったら、アラふしぎ。なんとか書けるやうになりました。これはなぜでせうか。4人で話し合ってみました。
 といふ本である。実際にはアウトラインプロセッサで書いてみても、締切を超過してしまって、まったく駄目なのだが。

 管見ではこの4人は、文章の書き方がよくわかってゐないことに、自分自身でも気がついてゐない。だから、まるで自分が物を書けないのはwordなどのツールやソフトのせいだと言はんばかり。そこに書けない原因があるのだらうと思った。
 1.さすが全員哲学を齧ってゐるといふか、こむづかしい言葉ばかり出てくる。しかし、簡単にわかりやすくいへることを、わざわざ誇張的に比喩を用ゐたりカタカナや熟語を並べたりして、奥深さうに見せかけてゐるとしか思へない。たとへば「有限化」「幼児性」「無能さでフィルタリング」といふ具合だが、それって要するに「限界」「欲」「自分にできることしかしない」ってことだよねと思はずにはゐられません。
 2.抽象的な理論は、具体的な事例があってこそ導き出せる。一方で、抽象的なものから抽象的な理論を導き出すことは、まづ無理だ。だから抽象的なアイデアが降りてくるのを渇望する。いまの哲学はわりと後者である。書けない理由もそこらへんにあるだらう。
 要するに以上の2点が原因だから、物を伝へるのが下手なのかもしれないと私は思った。
 結局この本を読んでいちばん印象に残ったのは、デカルト学者の小泉義之が優秀だといふことである。

 これを読むくらゐなら、野口悠紀雄『「超」文章術』を読んだほうがましである。4章のキツネ文の指摘は一種のポストモダン批判ではないかと思はせるし、アウトラインプロセッサは書きにくいと書いてあって、私は思はず笑ってしまった。哲学者と考へ方の違ひがはっきりしてゐますね。

 

隠れた良作大賞

小田実小田実の受験教育』講談社文庫

昔にも狂気の受験教育はあった
 『何でも見てやろう』の小田実が受験教育に対してつづったものだ。
 1966年に河出書房新社から刊行。古くささうだが、しかし内容は現在の受験教育にも通じるのでおどろく。中学受験や幼稚園受験、受験ママや受験パパのをかしな点をあげつらひ、そしていちばん骨太なのは小田の本領の英語教育を俎上にあげた文章である。

第8講 もっと息子さんを信頼しなさい

 さまざまな手紙をもらった。いくつかに答えてみよう。
 たとえば、私が文学部出身者であるので、卒業のときには、ジャーナリズム以外には、ろくな就職口がなかったと、ことのついでに書いたら、早速、心配症のお母さんから、うちの息子は東大の三年生だが文学部である、東大なので将来の就職は安泰であると思っていたのだが、あなたの一文を読んで心配になった、いまからでもやりなおさせたほうがいいでしょうか、という投書がきた。
 これにはおどろいた。じつは私のそのことばは、大学へいく目的をもう一度考えなおしてみよう、ただ就職のためにだけ大学へいくのはやはりおかしいことではないか、ということを書くついでに述べたことなのだから、おどろくのは当然だろう。大学と教育が結びつくまえに、それほどまでに、大学と就職とが結びついているのかとブゼンとした。
 そのお母さんには、つぎのようにいささか強いことばでいっておこう。
「もう少し、息子さんをご信頼なさい。息子さんはもう大人です。彼の進路は彼が自分で決めるでしょう。あなたのことばをきいて、もう一度やりなおすような人間なら、どこへいっても大成しますまい。あなたの息子さんはそれほどなさけない人物ではよもやないと思います。そんなふうにして、これまであなたは息子さんを導いてこられたのですか。また、これからもそうされるつもりですか。しかし、もう息子さんは子供ではありません。彼は自分のベストをつくすでしょう」

第9講 参考書を自分で編集したまえ

「受験勉強には、参考書を使ったほうがいいでしょうか」
 対象となる受験が大学受験なら、答えは肯定である。教科書だけでは、本来ならそれだけで十分でなければならないはずなのだが、現代の受験の状況では不十分である。〔…〕

「ぼくは高校を受験するのです」
 この場合には、私はむしろ、教科書をよく読むことをすすめる。高校の入試問題の程度は、参考書などという「専門書」を必要としない程度のものである。ということは、大学入試の問題に比べて、少しはましだということになるかもしれない(もっとも、けっして満足すべきものではなく、私は全体として大きな不満をもっている)。〔…〕
 ついでながらいうと、単語を単語集によっておぼえるのはあまり賢明なやり方ではない。さまざまな単語集が出版されているが、そのどれにも通用する欠点は、ともすれば、ただ機械的な丸暗記に終わってしまって、実際に英文を読むときに、その記憶が生きてこないことである。
 賢明な方法は前後のコンテクストのなかで、いわば「生きている単語」をおぼえてゆくことだが、それには、教科書を読み、知らない単語は自分で単語帳をつくって書きとっていっておぼえるという、もっとも正統的な方法が役立つ。〔…〕

「うちの息子は中学校を受けるのよ」
 参考書などいりません。ついでに、中学校の受験など、バカなことはおやめなさい。

「あら、うちのは小学校よ」
 右に同じ。

「参考書は何冊あればよろしいか」
 一冊をボロボロになるまでというのは感心しない。そんな受験生がいるが、彼はその参考書の問題ならたちどころにできるが(つまり、おぼえているのである)、他の問題ならからきしダメ、といったことが多い。〔…〕
 よく見かけるのは、最後まで読み返しもしないで、二十五ページまでは完璧におぼえました、と自慢げにいう受験生である。英文法の例でいうなら、名詞だけは完璧ですよ、というわけである。これがいかにばかげているかは、世のなかには、名詞だけで書かれている英文がないことだけでわかるだろう。〔…〕

「だれの書いた参考書をえらべば合格確実か」
 そんな便利な書物はない。各種の参考書のあいだには、それほどのちがいはない。そんな神通力にみちた書物を捜し求めるかわりに、することはいくらでもある。

 欠点を挙げれば、小田は左翼なので学生闘争に肯定的なのが気になる。

 

まとめ

 今年度は前年度に引きつづいて、夏まではミステリばかりふれてゐた。夏をとほして名探偵コナンをすべて見たり、ドラマ「相棒」を見返したり、ダンガンロンパをやったり、ディケンズのミステリ『荒涼館』を読んだりしてゐた。
 それでミステリが好きになったのかといふとそんなことはなく、秀作大賞を見てもらへばわかるとほりである。

 夏以降は、まづ高畑勲のアニメ「赤毛のアン」と「母をたずねて三千里」に感動した。高畑の世界名作劇場の発見は大きい。アニメ好きを自称する人はおしなべて見るべし。
 そして、電子書籍にふれて感心したことも大きい。電子は安いものが多く、また電子にしかない形態の本も多い。『村上さんのところ』や『石原慎太郎を読んでみた』の完全版は電子にしかないし、さきほど挙げた『対談 「政治家・石原慎太郎」を大嫌いな人のための「作家・石原慎太郎」入門』も電子にしかない。電子書籍のおかげで読書量も格段に上がった。(そして出費も増えた。)

 一年をとほしては、辞書ばかり買ってゐたと思ふ。しかし忠告しておくが、辞書なんかしこたま買ひこんでも役に立たない。引かなければ意味はないので、実質、引くことのない辞書が山のやうに溜まるばかりである。だが持たないのも不便なので、一冊ぐらゐは持っておいた方がいいだらう。

 なほ、ここには挙げなかったが、林達永・李惠成「JKからやり直すシルバープラン」(ヴァルキリーコミックス、キルタイムコミュニケーションといふ漫画の1巻が、意想外におもしろかった。大物政治家の孫娘がバブル崩壊とともに落ちぶれ、タイムリープして過去からやりなほすといふ話だが、あまり異世界ものやタイムリープものをなめてはいけないと思った。(あ、挙げてしまった。)

〈評論〉星新一を全部読む(読まない)

実はショートショートはほとんど読んだ

 中学三年生の頃に担当だった国語教師はまだ若く、星新一には長篇もありますよと言ったら驚いてゐたが、まあ一般的な教師の知識といふのはそんなものかも知れない。
 私は中学生の頃に星新一ショートショートは、『星新一ショートショート1001』(新潮社)といふぶ厚い全三巻全集を通読したことがあるので、だいたいは読んでしまった。『殿様の日』だけは飛ばしたので未読だが、なぜならそれだけは時代小説ものなので退屈に思はれたし、しかも收録されてゐるものとしては比較的長い方だった。ほかに星の作品で読んだのは長篇『声の網』(角川文庫)と、海外旅行の体験を書いた『きまぐれ体験紀行』(角川文庫)ぐらゐである。

星新一が書いたノンフィクション

 星の著作の中でわりと重要なのは、父と祖父のことを書いたノンフィクションがある。
 たとへば『祖父・小金井良精の記』には、星の大伯父の森鷗外の小説「舞姫」に関する記述がある。「舞姫」は実話にもとづいた小説で、鷗外が捨てた恋人のエリーゼ・ヴァイゲルトが、鷗外が帰国して四日後にあとを追って日本に来て、祖父の小金井良精に説得され帰国したことが詳細に書かれてゐる。(森鷗外の女遍歴については小谷野敦『文豪の女遍歴』にも詳しい。)
 星の著作では、ショートショートよりもかういふものが評価されるべきだったらうと小谷野は言ってゐる。

筒井康隆いはく「星新一はないないづくし」

 さて、星のショートショートは空き時間に気軽に読める暇つぶしの小説であって、本格的に腰を据ゑて読むやうなものではない(これを大学の時に後輩に言ったら、そんなの当り前ぢゃないですか!と言はれた)。『ボッコちゃん』新潮文庫の解説で、星のSF仲間の筒井康隆はかう書いてゐる。

 傷つきやすいハートを持つ星新一は、彼自身の最も恐れる複雑な人間関係の醜悪さを、そのストイシズムによって彼の文学から締め出そうとする。一方実生活の上では、他人を傷つけることのない自己の完成へ向かっている。もし星新一によって傷つけられた人間がいるのなら、それはよほどの悪人であろう。星新一は、しばしば他人からひどく傷つけられる人間は、意識せずして他人をひどく傷つけている存在であるということを、むろん知っているのだ。ここにおいて星新一は、信念という一元的な武装しかしていないハードボイルドの主人公たちを追い越してしまったのである。
(略)
 読者が彼の作品から受ける一種の透明感は、こうした彼の対象への多元的な姿勢がもたらすものであろうが、一方でこれは彼の文学から、日本人の喜ぶ怨念やのぞき趣味や、現代との密着感やなま臭さや、攻撃性が持つナマの迫力などを奪ってしまった。
(略)
 ついでながら、彼のエッセイの中にしばしば登場する古きよき時代へのノスタルジアは、彼の小説からはあまりうかがうことができない。帰納的に普遍化される彼の小説中のセンチメンタリズムからは、個人的なノスタルジアもまた、除かれなければならないもののひとつなのだろう。星新一の作品に、安易な感傷に溺れぬ俳句の精神が生きている所以である。
 しかし、だからといって最近の星新一に、東洋的原思想家の肩書きをあたえるのもいささか疑問に思えるのである。この評価はわれわれ読者に、星新一の内面世界へのそれ以上の追求と可能性の穿鑿をあきらめさせるものである。原思想家的な強さを持とうとして持てない星新一のやさしさと、世俗的なものへの未練は、彼の中編集『ほら男爵 現代の冒険』(四十五年)に見出すことができ、それこそがこの作品に彼の他の作品群からは得られぬ熱っぽさとバイタリティをあたえているのである。

 筒井はずいぶん迂遠に書いてはゐるが、これを要約すると次のやうになる。

〈星の小説には、複雑な人間関係の醜悪さがない。毒がない。ナマの迫力もない。ノスタルジアもない。なぜなら、それは星がストイシズム(=禁欲主義的、厳粛主義的)であり、安易な感傷に溺れぬ俳句の精神があり、東洋的原思想家的な強さを持たうとしてゐるためである。しかし星にも世俗的なものへの未練はある。『ほら男爵 現代の冒険』には熱っぽさとバイタリティ(=活力)がある。これは星の他の作品にはない。〉

 ないないづくしである。お気づきになった方もをられるだらうが、筒井は決して星のショートショートをほめてなどゐない。むしろ星の小説を《帰納的に普遍化される彼の小説中のセンチメンタリズム》(=感傷主義)としてゐて、《帰納的に普遍化される》とはつまり単純だと言ってゐるのだ。
 筒井は同様のことを1976年の『星新一の世界』(新評社)の「星新一の残酷性と人間愛」でも書いた。冒頭から《作家論というのは、ほんとはあまりやりたくないのだ。》と吐露し、作家論を書かうとする批評家の悪口を書き立て、星の厖大な作品を系統立てたり、共通性を見出すことに《アホか。》《系統化など最初から無理だ。》とののしり、それよりも個々の作品を論じるべきだと主張してゐる。その理由として、作家論からは「星が自身の作品から、複雑な人間関係の醜悪さをストイシズムで締め出してゐる」事実が見えてこないからだといふ。
 小谷野はブログにかう書いてゐる*1

 今回、ついに一念発起して、アマゾンのマケプレで『ボッコちゃん』を買って読み始めた。案の定面白くなくて途中で放り出した。解説が筒井康隆だったから、これは熟読した。そして驚いた。筒井は、星の作品が面白くない理由を、極めて婉曲ながら書いていたからだ。これは1971年のものだ。ストイック、とあるが、過剰に笑いをとろうとしない、下ネタは使わない。

星新一の真価はエロ

 私が星のショートショートでいまも記憶に残ってゐるものには、私が夢中になって読んだ井上ひさしの『吉里吉里人』と関係して、自宅に国を構へる「マイ国家」や、けむりによって出口がわからなくなった大勢の人々がTV局に閉ぢ込められる話、狂人を殺す蛇型ロボットを開発した博士が、酒を呑んで酔ったところへ蛇型ロボットに殺される話などがある。
 しかしやはりエロティックなものがいちばん印象深かった。といふのは、筒井が書いてゐるとほり、ストイシズムな小説といふのは、道徳的に抑圧されて無味無臭であり、印象に残りにくいからかも知れない。
 星の作品でいちばんエロティックなのは「はだかの部屋」(『おみそれ社会』所收)だと思ふ。押し入れの中に若いはだかの男女が次々に押し込まれていく話だ。ただし、いまあらためて読んでみても、きはどい単語は一切使はれてゐない。うぶな小中高生の妄想がはかどるだけである。
 ほかにも例外としては「解放の時代」筒井康隆編『60年代日本SFベスト集成』所收。のち『天国からの道』に收録)がある。これは星の作品中で唯一、やたら《セックスをした》が連発されるショートショートで、ツイッターで数へた人によると九ページに三十四回《セックスをした》が出てくるといふ(三十六回、三十八回だといふ人もゐた。私も数へたら最初は三十三回だったが、あとで三十五回になった)。
 筒井が星の小説からこれをえらんで『ベスト集成』に入れたのは、やはりストイシズムではないからであらうことは容易に想像できる。筒井は『ベスト集成』の解説にかう書いた*2

 編者にとって各作品の評価もほぼ定まっているということもあって、比較的編集しやすかったということがいえる。それでも名作といわれるような作品は、他のアンソロジイに何度も収録されている。星新一の「おーい でてこーい」や「ボッコちゃん」、小松左京の「御先祖様万歳」などがそれであって、こういうあまりにもよく知られた名作は、本当はそれが充分再読、三読に耐えるものであることを知りながらも、編者の、「自分なりの傑作選を編みたい」というエゴイズムから敬遠することにした。
(略)
 昭和四十年に上京して以来、星さんと親しくおつきあいいただくようになって、次第にぼくの中で星新一の真価が明らかになっていった。そんなとき、ぼくを決定的に打ちのめしたのがこの「解放の時代」である。「SFマガジン」四十二年十月臨時増刊号に掲載されたもので、いうまでもなく星新一唯一のポルノ作品。限りなくポルノに近いためにポルノを超えてしまった大傑作。読んだのは夏、原宿のアパートであったが、「やったあ」と叫んだのを憶えている。これはポルノ批判であり、また、今となっては「ポルノ批判」批判でもあり、星新一の両極的精神が最も発揮されている作品である。これだけセックスを透明に描いた作品がすでにあるというのに、今さら「限りなく透明に近い」もへったくれもあるもんか。
 なぜかこの作品、星さんは短篇集にも全集にも収録していない。一度だけ、筒井康隆編「夢からの脱走」という小アンソロジイに収録されただけであるから、読んでいない人が多い筈なので、編者としては喜び勇んでこれを巻頭に収録させてもらうのだ。

 《なぜかこの作品、星さんは短篇集にも全集にも収録していない。》とあるとほり、アンソロジーをのぞいて、死後に『星新一ショートショート1001』に收録されるまで、星はこの作品を一度も短篇集に入れなかった。新潮文庫の『天国からの道』も星の死後に刊行されたものだ。要はその作品の存在を人前から抹消・隠蔽したのであって、筒井の「ストイシズム」といふ見立てが実に正しいものであることがわかる。ちなみに《今さら「限りなく透明に近い」もへったくれもあるもんか。》は村上龍への揶揄だ。
 また、筒井は「星新一の残酷性と人間愛」にもかう書いた。

 しかし今までおれが星新一作品の多様化を理解しようとしてやってきたことは、必ずしも的外れではなかったようだ。つまりそれは各作品の共通性を見出すのとは逆に、星新一作品中の最も先鋭的な作品、つまり多様化のそれぞれの極に位置すると思える作品に注目してきた点である。
 おれのアンソロジイ中に含まれている星新一作品のタイトルを列記すればわかってもらえる筈だ。年度別の『日本SFベスト集成』には「解放の時代」「使者」「門のある家」「交代制」「有名」恐怖アンソロジイ『異形の白昼』には「さまよう犬」ユーモア・アンソロジイ『十二のアップルパイ』には「はだかの部屋」をそれぞれ収録していて、これらの作品すべてには星新一のほかのどの作品とも重複しないパターンの面白さがある。星新一作品のほとんどすべてに面白さの新しいパターンが含まれているのだが、これらの作品は特にそれが先鋭的なのである。「解放の時代」は星新一唯一のポルノ作品である。(略)

 《星新一作品中の最も先鋭的な作品》とは、いはば筒井にとっての星の代表作だが、それに挙げられた作品にも「解放の時代」と「はだかの部屋」が入ってゐる。私はこの文章を書いてゐる最中に「星新一の残酷性と人間愛」を読んで、私の印象に残ってゐる2篇と、筒井の印象に残ってゐる作品とが共通してゐるので、まったくおどろいたものである。
 しかし私は気づいてしまった。《これらの作品すべてには星新一のほかのどの作品とも重複しないパターンの面白さがある。》といふ文の対偶をとれば、〈星新一のほかのどの作品とも重複するパターンの面白さがあるのは、これらの作品以外である。〉といふことになるのだ。すぐうしろに《星新一作品のほとんどすべてに面白さの新しいパターンが含まれているのだが》とつけたしてもゐるが、筒井は暗に、星の作品の単調さを物語ってゐたとも言へる。

下品な星新一

 では星自身はつまらない人物なのか。私にはさうは思へない。かういふ逸話が、筒井の二〇一九年三月三十日の日記*3に書いてあるからだ。

 新元号に関して侃侃諤諤だが、昭和天皇崩御された時は、ちょうどSF作家が集っていて、新元号はどうするかという話になった。明治、大正、昭和と、すべて製菓会社の名前なので、次は森永がいいとおれが言うと、チョコ好きの小松左京モロゾフにしろと言い、星新一がロッテオバQガム元年などと基地外みたいなことを言い出して、全員腹をかかえたものだ。

 こんな冗談が言へるなら、なぜもっとユーモアを小説に入れなかったのだらうかと私は思った。もっとも、このブログ*4で指摘されてゐるとほり、この逸話と似た話が、一九六九年の大伴昌司をまじへた座談会*5でもされてゐる。

小松 どうだろう。大昔は国家におめでたいことがあると年号を変えたものだが、新宮殿の落成を祝って、年号を新しくしてみるのは? 「平凡」なんて年号あってもいいぞ(笑)。
(略)
大伴 慶応と明治があって早稲田がないのは不公平だね。
筒井 法政五年とか、立教七十年とか。
小松 東大ゼロ年(笑)。
筒井 明治があるんだから、森永があってもいいな。森永三十年、ロッテ五年(笑)。
 シスコおばQガム二十年、怪物くんチョコ元年(笑)。コカ・コーラ四十五年なんてのはどうだね(笑)。
小松 売国奴になるな(笑)。
大伴 やはり昭和がいちばんいいですね。では、おめでたい結論の出たところで……。 

 筒井が森永、ロッテと言ってゐて、一方、星はシスコである。ここは日記の記述と異る。なによりこの座談会は元号が変るより以前のものだ。だから筒井の記憶違ひか、あるいは星の十八番ジョークだったのかも知れない。
 この座談会が收録された一九七六年刊行の『SF作家オモロ大放談』には、およそ小説の星からは想像もできない、まるでストイシズムとは裏腹の下品な会話が盛りだくさんある。その一面が星の小説からは見えてこなかったことを見逃してはならない。
 恐しくくだらないので私は一度も笑へなかったが、さういふ星新一を読みたい方はどうぞ。現代なら百発百中くそみそにけなされて炎上するので、絶対にこれから文庫化も電子化もなされないこと、うけあひです。小松が自分の××××を食べたと言ったり、山口百恵の○○をゆで○○、フライ○○、かき玉子にするなどと発言したのにはどん引き中のどん引きである。

星新一ソ連

 なんとなくNHKのドラマのなかに入ったような気分だ。エロもなく、残酷もなく、凶悪犯罪もなく、明るい未来で、健全で、コマーシャルがなく……。
 そしていささか官僚的である。

 この文章を読んで、また筒井による星の評価かと思ふかも知れない。
 しかし、実は星が1975年にソ連作家同盟の招待でソ連へ行った時に、ソ連の様子を書いた文*6である。
 星のソ連に対するこの評価は、さきに引用した星の作品に対する筒井の評価と重なってゐるやうにみえる。私はこれを読んで、星のストイシズムと無味乾燥としたソ連のあひだに共通性を感じたのだが、まさにその共通性のゆゑか、星がソ連に興味を示す書きぶりが『きまぐれ体験紀行』には散見される。

私はラスキン氏に言った。
「さっきからのお話のようすですと、この国ではSFと純文学だけが存在し、大衆小説をみとめないようですが」
「その通りです。いい小説が広く読まれる望ましい状態で、SFと純文学だけあればいいのです」
 信じられぬような話である。まさかと思い、そのご、ほかの何人かに聞いてみたが、やはり同じ答え。この国ではSFと純文学しかみとめないらしいのである。
 SFマガジンに時どき「SFが低く見られているようで残念だ」というたぐいの投書がのるのを思い出した。私は好きで書いているのだし、軽視されたと感じた体験もないが、人生、気は大きく持つべきだ。こういう方針の巨大な国もあるのである。次元のちがう世界に入りこんだような感じだ。私はいい気分でたくさん飲んだ。
(略)
 翌朝はひどい二日酔い。そこを起され、モスクワ放送の人から、日本むけの番組のため、なにかしゃべれとたのまれた。(略)
 北さん、大庭さんは、あこがれのロシアの文豪たちの土地に来られた喜びを話した。私は「とにかく、ソ連の人はいいです。SFを高く評価していますし」と、しゃべった。

 もっとも星は追記に

私たちはソ連からいやな印象を持ち帰らなかった。そこで暮すとなると官僚主義でねをあげることになりそうだが、招待された旅行者であり、なにかと優遇されたのである。

と書いてゐて、一見冷静にも見える。『星新一の世界』の武蔵野次郎との対談「ドアを開けると、そこには!」でも星はかう言ってゐる(傍線筆者)。

武蔵野 なるほど。ところで、ソ連に行かれたのは?
 去年です。
武蔵野 印象はどうですか?
 本当に未知の世界に行ったという感じですね。
武蔵野 ほおー。
 ソ連に行ってわかったのは、ロシア革命というのは日本では明治維新なんですね。
武蔵野 やっぱりねえ。
 維新の時に、会津と長岡を除けばほとんど人は死んでないんですよ。あの大騒ぎにもかかわらず。ロシア革命でもそうなんです。それにくらべたら。アメリカの南北戦争の殺し合いはすごい。
武蔵野 ああ、そうですかねえ。
 しかし、その後の日本とソ連が決定的に違うのは、日本には自由民権運動があり、ソ連にはなかったということですね。
武蔵野 向こうでは、制限が厳しいとか、固(ママ)苦しいような感じはしませんでしたか?
 我々の場合は向こうの作家同盟の招待でしたから、わりと良かったですけど、あれ一人で旅行したら、ちょっと大変ですね。しかし個人的には、本当に誰もかれも人がいい、感じがいいですね。
 もっとも、あそこはあれだけ国が広いですから、一部をもって全部を断定することは出来ませんけど。
武蔵野 そうですね。
 だいたい同じソ連でも地方によって言葉が違うんですものね。人種からして違う。レニングラードと南のシルクロード近くじゃあ、もう全然違うんですよね。
武蔵野 ソ連以外では、どこへ?
 イギリスはどういうわけか行きませんでしたけど、普通の人が行くようなとこは一応行ったという……。
武蔵野 どこが一番いいですか。
 見物して面白かったのはオーストラリアですかな。しかし住むところじゃないですね。健全きわまりなくて、刺激がなにもない。
 井上ひさしさんがはやばやと帰ってきたのがよくわかりますよ。

 だが、そもそもソ連作家同盟といふのは1958年にノーベル文学賞を授与されたパステルナークに圧力をかけて辞退させたり、1969年に反ソ連ソルジェニーツィンを追放したりしてゐる。小谷野敦によると*7パステルナーク辞退を受けて西側諸国のペンクラブは抗議声明を出したが、日本ペンクラブは事務局長の松岡洋子がのちに中国の文革を支持したほどの社会主義者だったため、ソ連側につくつもりで遺憾の意を表したにすぎなかったといふ。これに対して、サイデンステッカー、ロゲンドルフ、アイヴァン・モリスの三人の日本学者はペンクラブへ非難声明を出し、理事の平林たい子と、竹山道雄はペンクラブを退会、アーサー・ケストラーはペンクラブへの招待を断った。
 かういふ出来事は1975年には星もすでに知ってゐたらう。しかし、それでゐてソ連作家同盟の招待でソ連へ行ったのはどういふわけか。当時社会主義に幻想をいだいてゐた日本の左翼知識人とは一線を画してゐたのかも知れないが、態度が明白ではないからよくわからない。

星新一がほめたショートショート

 最後に、星が絶賛したショートショートを紹介しておかう。
 それは川端康成の『掌の小説』である。星は武蔵野との対談でかう言ってゐる。

武蔵野 〔筆者註。短篇が〕二十枚というのは、実作者としては難しい枚数でしょう。
 ちょっと難しいですね。川端(康成)さんの「掌の小説」も、ずいぶん短いのがありますね。僕は「心中」という作品に肝をつぶしてしまいました。かなり凄みのある、ねえ。
武蔵野 ええ、ありますね。
 普通の人は、あの掌編集は一種の身辺雑記と先入観を持ってるけど、読んでみるとかなりストーリー性のあるものですね。
武蔵野 やはり自分のことを書いてるような感じがするから、読者は私小説のような感じがするんでしょうけど……。
 でも「掌の小説」は、あんまり私小説という感じがしませんけどね。

 ほかにも『掌の小説』にある「片腕」は筒井も絶賛してゐて、筒井は『読書の極意と掟』講談社文庫)に《感心したのはシュール・リアリズムを日本の感性で書いていることである。》と書いた。

次回の星新一テーマは「星新一と純文学」かも?

 余談だが、星はこの武蔵野との対談で興味深いことを言ってゐる。

純文学には同情してやらなきゃ

 しかしどうなんですか、純文学というのは依然としてわけのわからん難しい文章をこねまわして、ああいうのをありがたがっているところは、おかしな話ですな。一番遅れている分野じゃあないですか。
武蔵野 そうなんですよ。各新聞もあいかわらず人の読まない純文学の月評だけあんなにやっちゃって。本当は大衆文学という言葉が悪いんですね。大衆酒場とか、大衆浴場とかそんな使われ方してますでしょう。中間小説だって、呼び方としては良くないですよ。
 上があり下がありということですものね。
武蔵野 僕は読者が多いものが本当の大衆文学だと思うんです。
 そして時間的にも残るものであるべきだという……。
武蔵野 もちろんです。大衆文学というと何か安っぽく感じちゃうのは、そもそも戦前は時代物が多かったでしょう。それを阪妻以下の時代劇の俳優がいっぱいいるもんで、なんでも映画にしちゃったことも影響してますね。
 でしょうね。今の若い十代は、テレビ、劇画にあきてまた活字に戻ってきましたけど、ああいう人たちは先入観なしに面白い、面白くないで評価して選んでますね。だからいまは名称がどうのこうのということに、あまりこだわることもないんじゃないかと思いますが。
武蔵野 そうですね。だから一番いけないのは、大新聞の純文学月評だと思うんですよ。
 だけどあれがあれば、そこを読んだだけで本を買わなくて済むんだから、あるいは人助けになってるかもしれませんよ(笑)。
武蔵野 ハハハハ。だいたい、本当の純文学ならば、雑誌に出して原稿料貰うというのは間違っていると思うんです。雑誌に出して、あるいは単行本にして原稿料を貰うという以上は、大衆文学になるわけですよ。南条(範夫)さんも言ってたんですが、本当の純文学というものは人に見せるもんじゃないって。
 ああ、なるほど。
武蔵野 自分のために書くのが純文学であって、そこのところが非常に曖昧になってますね。
 純文学はきわめて同情すべき存在だというふうに、視点の変更をなさってみたらどうですか。
武蔵野 そうですね。それはいい。
 だから、賞もいろいろいっぱいあげるべきだし、文芸時評で取り上げるべきだし、かわいそうだからいたわってやっているというのが、今の実情じゃあないでしょうかね。
武蔵野 それと今回の芥川賞なんかで問題になってたらしいんですが、文章が全然駄目だということ。
 ああ。
武蔵野 どうしてああいうのが通用するかということですね。その点、大衆文学作家というのは文章がうまいですよ。時代物の場合、戦前の作品だと、一つの立ち回り場面にしましても非常に簡単なんですよね。「えいっ」、「やあっ」、チャリンぐらいで。それが戦後は五味康祐さんあたりから、非常にその場面がうまくなってきた。
 そうでしょうね。
武蔵野 小説を作る筆力、そういうものは大変なものだと思うんです。
 うん、うん。
武蔵野 星さんの場合、読みやすくするために意識的にひらがなを多く使うとか、そういった工夫はなさるんですか?
 僕は、文部省の決めた当用漢字制度というものを必ずしも支持してはいませんけど、なるべくあれにのっとるという方針です。読めない漢字を使って、意味をとりちがえられては困りますからね。その結果、ああなってるわけです。自分なりのメロディーを含ませようとはしていますけどね。

 ひどいぐらゐのこき下ろしやうだが、《わけのわからん難しい文章をこねまわして、ああいうのをありがたがっている》といふ部分は現代文学や哲学にも通じる話でそこは共感した。
 気になるのは武蔵野の《それと今回の芥川賞なんかで問題になってたらしいんですが、文章が全然駄目だということ。》といふ発言である。
 1976年12月に刊行された『星新一の世界』の奥付には、対談の初出がない。また先ほどのソ連のくだりで、星がソ連に行った年を《去年です。》と発言したことから、対談がなされたのは1976年だとわかる。つまりこの対談は語りおろしだらう。
 そこで1976年の芥川賞を調べてみたら、なんと上半期の受賞作は村上龍の「限りなく透明に近いブルー」であった。私は筒井の『ベスト集成』の解説を思ひ出したが、関係があるかどうか。
 だから、もしも次回星新一の評論を書くとすれば、そのテーマは「星新一と純文学」になるかもしれない。

参考文献

*1:

jun-jun1965.hatenablog.com

*2:筒井康隆編『60年代日本SFベスト集成』ちくま文庫

*3:

shokenro.jp

*4:

b8270.hateblo.jp

*5:小松左京全集完全版 44』城西国際大学出版会

*6:星新一『きまぐれ体験紀行』講談社文庫

*7:小谷野敦文学賞の光と影』青土社

社会学者・見田宗介の不倫

 東大の見田宗介はいはゆる社会学者だとされてゐるが、富永健一ほど実證的なわけではなく、むしろ哲学的なので私は社会学者?だと思ってゐる。高校の頃、国語教科書に載ってゐた見田の評論を読んで、この人のことは記憶してゐた。

 その見田が2022年4月に亡くなった時、比較文学者の秋草俊一郎氏がかういふツイートをした。

 私はおどろいて、へえー息子は漫画家なんだと思ってウィキペディアの記事*1を見たら、結構気になることが書いてあった。

幼少時、一年間メキシコで生活。自身の家庭を恵まれたものとは感じていなかった事を告白している。(傍線は筆者)

 あいにく典拠がないので、ウィキペディアだけでは詳しいことはわからない。そこで本人のTwitterを調べたところ、なかなかおそろしいことが書いてあった。

 特に《僕は前妻の子です。今の不倫再婚相手との、父親の家庭は幸せなようです。僕が独立して雨漏りのする家で必死にドラゴンハーフを描いて生きていた頃、父親達は伊豆に別荘を持って悠々自適に暮らしていたとのことです》の箇所を読むと、見田が不倫をして、息子のことをはふっておいたことがわかる。この一連のツイートを読んで、私は一気に見田宗介人間性がいやになった。

 それで「見田宗介の闇が……」とツイートしたら、ある人からコメントが返ってきて、どうやら見田竜介の成人漫画のほうを闇だと思ったらしく、とんちんかんな気がしたものだ。

舞城王太郎と賞

大江を援用したラノベをさがせ!

 『大江健三郎 作家自身を語る』新潮文庫で聞き手の尾崎真理子が、大江の小説『万延元年のフットボール』についてかう言った(文庫p.127)。

 ――とにかく、文学的な影響力の大きさからみれば、おそらく戦後のベストワンがこの作品ではないでしょうか。村上春樹氏の『1973年のピンボール』へタイトルをはじめとして影響を与えたともいわれますし、最近ではライトノベルの作品にも兄弟と蔵のミステリーが、周知の古典的エピソードとして援用されたり。(略)

 村上の『ピンボール』の題が大江の『フットボール』から取られたといふ説は、おそらく柄谷行人が言ひはじめた。柄谷は大江との対談*1でも言ってゐたが、しばらく真偽が疑はしいうはさのやうになってゐた。
 しかし、最近村上は東京FMのラジオ番組「村上RADIO」で大江のもぢりだと認めた。また、村上は柴田元幸の東大の授業にゲスト出演した際に、十代の頃に大江から影響を受けたとはっきり認めてゐる*2 。村上はまったく大江に影響を受けてゐないといふ一時期の風説をくづすつもりで、私はウィキペディアにこれを書き加へたこともある。

 さて、本題に入る。
 私は高校二年生の頃に初めてこの文章を読んだ時、非常に興味をそそられた。大江健三郎を援用するラノベなどあるのか。見つけて読んでみたいものだ、とさう思ったのである。
 さっそくツイッターで「大江健三郎 ラノベ 尾崎真理子」と調べたら、ある人が同様の疑問を提示してゐて《もし作品名をご存知の方があればお教え下さい》と書いてゐた。その気持はよくわかった。知恵袋にもアカウントを作って質問をしてみたが、「大江みたいなやつの」とイデオロギー的に左翼の大江と正反対の右翼らしい人の、悪意をむき出しにしたそっけない返信がきたばかりで、通報したらすぐに削除されたが、結局それから回答はひとつも来なかった。
 そして三年が経ち、やうやくその答を知った。
 ふいに、尾崎真理子が思ひ浮べるラノベとはなんだらうかと思ひ、「尾崎真理子 ライトノベル」と検索したのである。すると尾崎の『現代日本の小説』といふ著書について感想が書かれた個人のサイトが見つかり、そこに尾崎真理子は舞城王太郎ラノベ作家の代表としてあげてゐるが、上遠野浩平谷川流の方が代表といはれてゐるのではないかと書いてあった 。*3
 してやったりと思った。この時やうやく私はインターネットでの情報收集のコツを摑めた気がした。情報の真偽を確めるためにツイッターでも「万延元年のフットボール 舞城王太郎」と検索をかけたところ、舞城のデビュー作である『煙か土か食い物』が『フットボール』のオマージュだといふツイートが書かれてをり、いよいよ尾崎の言ふ「大江健三郎を援用したラノベ」の正体が明かになったのである。
 なほ最近、佳多山大地の『新本格ミステリを識るための100冊 令和のためのミステリブックガイド』星海社新書)を見たら、舞城の『煙か土か食い物』について『フットボール』との共通性が指摘されてゐた。もしかしたらほかの本にも、私が見落した同様の指摘があるかも知れない。

尾崎真理子のラノベに対する認識のズレ

 ところでサイトの著者も書いてゐるとほり、はたして舞城はラノベ作家の代表なのだらうか。
 まづ、世間的には舞城がラノベ作家だと言はれても、いまいちぴんとこないだらう。舞城はメフィスト賞を受賞した講談社新本格ミステリの流れを汲む娯楽作家で、西尾維新とちがって次第に講談社ノベルスからは出さなくなった。三島賞を穫った後はそのせいか芥川賞の候補になり、当人もだんだんと純文学寄りの娯楽小説へ転向してきて、世間的にもなにか純文学作家のやうに勘違ひされるにいたった。私は、舞城は当初からラノベの系譜にあって、その衣鉢を継いでゐると思ふ。だから舞城をラノベ作家として扱ふことに違和感はない。
 しかし舞城より有名なラノベ作家はゐるし、そもそもラノベは漫画風の挿絵がついた、内容が軽いタッチの通俗娯楽小説であって、ラノベ全体からすれば決して代表とは言へない。
 私は最初、ここらへんに、尾崎と世間とのラノベに対する認識のズレがあるのだらうと思ってゐた。だが、純文学といふせまい枠組の中で見れば、尾崎のやうに舞城がラノベ作家の代表だと錯覚することはあるのかも知れないのだ。つまり尾崎は微視的な範囲でしか小説を見れてゐないと思ふ。

私の舞城に対する評価

 舞城は最近集英社ジョジョのスピンオフを書いたり、漫画の原作をやったり、「龍の歯医者」や「イド:インヴェイデッド」などアニメ脚本を担当してゐる。
 「イド:インヴェイデッド」は二〇一九年のSFミステリアニメで、Fate/Zeroあおきえいが監督し、一部でかなり評判が高かった。私も見てみたのだが、一応は筋が通ってゐるやうだけど、パプリカとインセプションを足して割ったやうな、いかにもフロイド的な、まあ結局はなんでもありな話なんだなと思った。漫画も読んだが、いかにも新本格系といふか、バカミスすれすれのトリックで、リアリストの私には受け容れがたかった。
 芥川賞候補になった『好き好き大好き超愛してる。講談社文庫)も読んだ。全篇的に恋人を喪失した話の連作といふおもむきだが、私のやうに恋愛経験も喪失体験もない人からしたらおもしろくはなく、よくわからなかった。冒頭の《愛は祈りだ》は祈りといふと宗教的で、《僕は世界中の全ての人たちが好きだ》といふのは博愛で、なにやらキリスト教めいてゐる。しかし全体の、相手を喪失する・した恋愛の話とは矛盾してをり、博愛と恋愛とを混同してしまってゐると思った。
 芥川賞の選評を見ると、私の意見は黒井千次の《全体がいかなる構造を持つかの構成意図が遂に掴めなかった》 *4といふ評に近い。石原慎太郎は《題名そのものまでが『好き好き大好き超愛してる。』にいたっては、うんざりである。》と突き放したが、一方で池澤夏樹は激賞してゐる。しかし池澤は丸谷才一と師弟関係にあり、概して丸谷と同じ反私小説路線を辿ってゐるため、架空の作り物の小説を高く評価する傾向が強い一方で、西村賢太のやうな私小説作家については選評を一言も書いてゐないなど、差別があからさまである。だから『好き好き』についても《まるで奥行きのない、いわば文学のスーパーフラットとも言うべき文体が大変に効果を上げている。》として、その人工性をほめてゐる。

東野圭吾舞城王太郎選評

 東野圭吾はエッセー集『さいえんす?』(角川文庫)に、某文学賞の選考委員をしてゐて、とある候補作に、車に轢かれた人間が電線まで跳ね上がるといふシーンがあり、ありえないと断言したとある(文庫p.95)。
 東野は整合性を重視してをり、直木賞の選評でも森見登美彦の『夜行』に《私の苦手なジャンルの小説だ。》《おそらく合理性を求めるのは野暮で、作者の描く風景が好きか嫌いかという問題だろうが、私は最後まで疑問がいくつも頭に残ったままになる読書は、あまり好きではない。》 *5と書いてゐるし、西加奈子の『サラバ!』などに整合性の疑問を呈してゐる。たとへば米澤穂信の『満願』では《最も致命的なのは『万灯』で、コレラについて完全に間違えている。コレラの主症状は下痢で、菌は便からしか出ず、しかも経口感染。通常、人から人へは感染せず、この小説のケースでも感染はありえない。》《もう一つ、『満願』の妻には借金の返済義務はない。殺人の動機も成立しない。》といった具合だが、一方宮部みゆきは《意外に厳しい評が集まり、事実関係の記述のミスも指摘されて、私は大変驚きました。》《私はこのハイレベルな短編の連打に魅せられました。表題作の「満願」には、松本清張の傑作「一年半待て」を思い出しました。》 *6などと甘い評価を下してゐる。これは東野が理系の推理作家だからこその長所であり、人文系ならともすれば無視しがちの、見習ふべき部分である。
 話を戻すと、東野がここで某文学賞といふのは、二〇〇三年の日本推理作家協会賞短編部門の時で、この、車に轢かれた人間が電線まで跳ね上がる小説といふのは、実は舞城の「ピコーン!」のことであった。このことを指摘した文章が見当らないのでここに書いておくが、私はこれに気づいた時、なあんだ舞城なら仕方ないと思った。舞城はさういふ作家なのである。東野の選評*7を引用する。

 唯一、強く推す委員がいた作品である。しかし私は反対した。物理的にどうしても承伏できない現象が出てくるからである。少し理科が得意なら、小学生でも変だと思うだろう。ミステリを破壊しようという意図は感じるが、苦手な部分をごまかすためにそうした手法をとっている、と、いじわるな見方もできる。ただし主人公の女の子はよく描けている。今回の全候補作中、最もリアルな存在だった。それだけに探偵まがいの活躍をする場面は残念だ。物語のための登場人物に成り下がっている。文体についても、村上龍氏らの先行作品があるため、特に新しいとは思わなかった。

題材としての酒鬼薔薇事件

 この「ピコーン!」は『熊の場所』(講談社文庫)といふ短篇集に收録されてをり、私は大学二年生の時に同級生にこれを貸したら「好きぢゃない」と言はれてしまった。もっともかれが貸してくれた『インスタント・マギ』(KADOKAWA、NOVEL0)も、輪姦やグロが出てくる男性本位のリョナ系のラノベで、私には耐へがたく、俗悪としか思へなかった。
 この短篇集の表題作である「熊の場所」は三島由紀夫賞の候補になった。選評での指摘通り、神戸の酒鬼薔薇事件を扱ってゐるが、選評を読むと銓衡委員の不満が窺へる。
 髙樹のぶ子は《私にとっては、少年期の性(の芽生え)と残虐性の関係が新鮮だったが、この点においては男性選考委員の賛成が得られなかった。》 *8と書いてゐる。たしかに小学生の主人公が友人のマーくんのお母さんのシャワーシーンを覗いて胸に対して反応する場面は、私も印象に残ってゐた。『好き好き』の方も、本筋の恋愛喪失うんぬんよりも、脇道の、途中で小説家の主人公が語るSF作品構想や突然土井たか子の名前が出てくるのがおもしろかったりして、《恋愛を書いていながら大演説かパロディを読んでいる気がした。》といふ髙樹の選評どほりのやうな気がした。

あまり有名ではない三島由紀夫賞

 三島賞について簡単に説明しておく。三島賞は新潮社が文藝春秋芥川賞直木賞に対抗して、山本周五郎賞とともに設立された賞だが、あまり有名ではない。
 第一回の銓衡委員は江藤淳、大江、筒井康隆中上健次宮本輝だが、大江と江藤は以前から敵対関係にあり、しかも第一回の候補作は十二作もあって多過ぎたので絞りきれず、議論は紛糾した。筒井はその模様を『創作の極意と掟』講談社文庫)に書いて、大江は島田雅彦の『未確認蛇行物体』がいいと言ったが、筒井は後半が蛇足だとして金魚のウンコだと言ったら、中上は笑って同意してくれたといふ。
 結局高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』といふ、題がフィリップ・ロスの小説から由来してゐるだらう小説が受賞した。高橋はその賞金百万円をすべて競馬に投じてパーにした。

熊の場所」の書き直し

 話を戻す。「熊の場所」は三島賞を落選したが、次回ふたたび舞城は候補になった。『阿修羅ガール』である。私は新潮文庫で初めてこれを読んだ時、また酒鬼薔薇事件を扱ってゐるではないかと思った。ストーリーは異ってゐるし、主人公も小学生ではなく女子高生なのだが、どちらにも共通して幼児殺人犯が出てくる。舞城が「熊の場所」の選評に反応したとしか思へない。つまり『阿修羅ガール』は前作「熊の場所」の選評を受けての書き直しとも言へるのだが、これを指摘した文章が見当らないのでここに書いておく(二度目)。
 『阿修羅ガール』は三島賞を受賞したが、選評を読むとほかの候補作が悪く、銓衡委員は全体的に消極的で、消去法で選ばれたことがわかる。髙樹は《生活体験の乏しい若い人が、二、三百枚の長篇を書こうとするときの困難さが、今回候補作六篇を読んでいて、強く印象づけられた。》 *9としてゐるし、筒井ははっきり《実は今回のこの作品の受賞はこの長篇の力というより他の作品に力がなく新鮮さもなかったからでもあるのだ。》と書いてゐる。同感だったのは《難のひとつはあまり面白くないことで、エンターテインメントとしてはさらに面白くないことになるが、》とあることで、私も読んでゐてなんだかあっけなく、なんでこれが舞城の代表作と言はれてゐるのか釈然としなかった。
 受賞に大反対したのは相変らず宮本輝だけで、髙樹が書いたやうに《突然巨大な活字が出現したり、「死ねーっ」が十二回連発されたり、「ウンコパ〜ン。デ、デレッデ!」などの擬音多用を良しとするわけではない》のが、奇抜なものをきらふ宮本の性格だらうとは思ふ。島田雅彦は銓衡の様子を茶化してかう書いた。

——ええかげんにせえや。
 宮本輝サンはそういって、×をつけた。それに勝る批評はあるまい。許しがたいだろう、こんな奴。おととし中原昌也に授賞させたと思ったら、今度は阿修羅かいな。輝サンはマジで怒っており、最初に〇をつけた筒井サンの首を絞めそうだった。

 しかし私は宮本が怒ったのには別の要因もあるのではないかと思ふ。
 『阿修羅ガール』には宗教の記述がある(文庫p.106)。

(略)「グルグル魔神」を描いたらしい絵も時々あって、それはなんかよく判んない変な渦巻きの絵だった。つーか明らかに酒鬼薔薇聖斗の「バモイドオキ神」やら、何とかという奴の「ジャワクトラ神」やらのパクリだった。
 他人(ひと)の神様パクんな。
 と思ったけど、そもそも宗教なんてパクリばっかなんだった。宗教心そのものもパクリだ。なんか心に穴空いた奴らがあ~やべ~何かに夢中んなりて~ってきょろきょろまわり見て、何かよくわかんないけど一生懸命空やら十字架やら偶像やら拝んでる奴らを見つけてあ、あれ、なんか良さげ~とか思って真似すんのが結局宗教の根本。布教ってのはそういうぼさっとしてるわりに欲求不満の図々しいバカを見つけてこれをパクって真似してみたらなんとなく死ぬまで間が持ちますよって教えてあげること。まあそんなふうにパクリでも真似事でも何でも、人の役に立ってたり、少なくとも人に迷惑かけてなかったらなんでもいいけど、猫とか犬とか子供とか殺して、その言い訳に、人からパクった宗教とか主張とかイデオロギーとか使う図々しいバカは死ね。

 実は宮本は創価学会の会員であるため、この記述が気に入らなかったのではないか。宮本が会員であることは、当人も文章に書いたりインタヴューで言ったりして認めてゐることだ。小谷野敦によると*10*11、同じ創価学会辻仁成芥川賞を受賞した際には、土下座してその受賞を頼んだといふ説もある。小説家と新興宗教の関係はほかにもあり、たとへば小川洋子は祖父の代から金光教の信者である。もう宮本は退任したが、つまりつい先達てまで芥川賞の銓衡委員にはふたりも新興宗教信者がゐたわけで、昨今の情勢においてかういふのはやはり考へものであらう。
 小谷野は第一二二回芥川賞の記者会見で見た宮本の印象についてかう書いてゐる*12

 それで、玄月を推したということで宮本輝が出たのだが、驚いたのは宮本の態度の傲慢さである。記者会見の司会は私も知る『文學界』の編集長がやっていたのだが、その編集長に大阪弁でからむのである。ヨコタ村上孝之みたいな感じで、「何やもうしまいか」などと言っていた。
 終わってから数人で外へ出て少し歩いたのだが、その米国人青年もいたので、私は彼に英語で「Miyamoto Teru's arrogance」に驚かなかったか、と訊いたら、彼は「イエース!」と小声で叫び、「それに一番驚いたのだが言えない雰囲気があって言えずにいた」と言ったものである(もちろん英語で)。
 当時まだ宮本輝は、好青年風の若いころの写真が流布していたので、まるっきり大阪のおっさん風なのに驚いたというのもあるのだが、後で人に話しても、「そりゃあ宮本輝ってそういう人でしょう」というような反応が多かったのであった。

 結局、覆面作家の舞城は三島賞の授賞式には出席しなかった。芥川賞で『好き好き』が落選した際には、『介護入門』で受賞したモブ・ノリオがふざけて「どうも、舞城王太郎です」と言ったが、豊﨑由美は書評で《サブかった》としてゐる*13

参考文献