ラノベ「とらドラ!」のいたいたしさは、純文学からだとおもう
けったいなまえがき
先日「ゼロの使い魔」を見終えて、ひさしぶりに喪失感にとらわれた。
主人公とヒロインの後日譚をよみたい。平穏な日々のしあわせな描写がみたい。でも作者はいない…… というおもいがぐるぐると巡って――
もちろんそれはニセの喪失感だとおもう。
だからそれを紛らすようにして、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』をよんでいる。
もちろん空虚さを満たすための読書だ。
AIに「ゼロの使い魔」に似た(ツンデレが出てくる)読み味の古典を教えてくれませんかときいて、ブロンテの『ジェイン・エア』、シェイクスピア「じゃじゃ馬馴らし」「から騒ぎ」。それらとともにこの1813年の小説を教えてもらった。
『高慢と偏見』はよくできている。
まず登場人物がことごとくラブロマンスの鋳型を汲んでいる。お金持ちイケメン、ライバルお嬢様、結婚に乗り気な母親、頭がからっぽな妹、冷笑少女、無愛想ハイスペック男子。
なにせヒロインは家族の2番目に美しい次女とくるものだから、学園ラブコメみたい。さいしょ、出会ったばかりの運命の男性は、ヒロインにとって最悪な印象なのだから。
まあそれはいいとして。「とらドラ!」
2008年の作品で、これもからっぽなこころを、ニセの作品で満たそうとする。さっきと同じ動機だった。
正直、なんでみようかとおもったのかはわからない。釘宮理恵というつながり、そして、名作という意識がはたらいていたせいかもしれない。
キャラクターは、愛されているとおもう。情けなくって、ダメダメで。でも思春期で、いたましくって。
櫛枝というキャラがいる。ギャグばっかりのクラスのお調子者で、主人公が好きな女子で、あかるくて、かがやいて。でも櫛枝はあきらかにつくろっているんだとおもう。かくしているんだとおもう。
川嶋というキャラがいる。主人公の高校に転校してきたファッションモデルで、本音とタテマエを使い分けて。くさっているようにみえて、けれど、そのじつ、わかっちゃっている。なにもかも、自分だけわかっちゃっていて、そんな自分にあきらめている。
主人公とヒロインも負けず劣らず、複雑で、万華鏡で。
アニメの後半には、そんなふたりが、いまにもどうにかなりそうな気配がただよっている。
いいアニメだとおもう。
それはキャラクターの点において、いい。
アダルトチルドレンと共依存
11話では、ヒロインの親との関係が出てきて、重かった。
アダルトチルドレンの要素。
主人公、ヒロイン、どちらも親が訳ありで、主人公はヒロインの父親をいいやつだと勘違いし、あとでそれがまちがっていたことに気づいて、文化祭中、ヒロインにあやまって……というわけにはいかず、どうしようもない罪悪感にたかられながら、ミスコン後の競争大会、なぜか走って走って走って走って。自分のなかの、和解のようなことをした。
そんな描写があって、ぼくはそのなあなあさが理解できない。走って走って、それですべてよし、ってどうなのだろう? 軽すぎやしないか?
24話、25話の最後の展開は、かなしかった。主人公とヒロインは結ばれ、キスもした。でも結ばれた爽快感はなくて。あくまで精算。そして区切りとしてのキスで。とてもきれいだった。
そして告白したあとで、ヒロインは主人公からすがたを消した。
なんだか、かなしかった。
とても、かなしかった。
純粋なハッピーエンドじゃないのが、つらかった。
再会したのに、もやがのこっていた。
棘のように食いこんでしまって。
ぼくは「とらドラ!」をみてようやく気づいた。
ヒロインはツンデレといわれていて、ちいさな彼女は主人公に依存していて、ほんとうの意味で、身のまわりを世話してもらっている。その過程で、主人公への気持に気づく。
でも視聴者のぼくはおもう。
それは共依存ではないだろうか? 主人公と疑似家族として過ごすうち、ヒロインは恋と錯覚したのかもしれない。主人公のヒロインにたいする気持は、ほんとうに恋なんだろうか? それは父性愛と呼ぶんじゃなかろうか。
「ゼロの使い魔」もツンデレなんだけど、やっぱりヒロインは精神的に不安定だとおもう。
ツンデレって、精神的に不安定をかかえている、のかもしれない。
あの結末への考察
なんであんな結末になったのだろう。
最終話。
主人公は親の境遇に精算をつけた。母親と祖父母のよりをもどして、みんなをしあわせにした。
それをみて、ヒロインも、自分の親に精算をつけようとした。もちろん、みんなでしあわせになるために。
これはアニメの中の辻褄合せだ。
今度はアニメの外の辻褄合せを考える。
それは倫理観だとおもう。
ネットを巡回していると、『とらドラ!』最終話の感想として感動した、とか爽やかだった、とかいう感想があるのだけれども。僕はひたすらに悲しかったです。
なぜなら、大河が転校するしかなかったから。
大河の転校が意味するのは彼女の成長だと思うのだけれど、そう考えると、そこから伝わってくるメッセージは「大人になるには痛み(別れ)が必要だ」というもの。これって、つらくないっすか?(…)
そもそも僕が『とらドラ!』を好む理由は、櫛枝と竜児と大河の退廃的な『家族ごっこ』が魅力的だったから。この『家族ごっこ』は、(…)つまり心に傷を持つチルドレンの共依存の場なんだよね。暖かい、というよりぬるい場所。この空気感が僕の目に好ましく映ったわけです。
まあ、こういった爛れた関係は破壊されなければならないっていうのが、ストーリーの要請で、例示した三つのエロゲーでも共依存の場は必ず崩壊する。僕はこの悲哀と同じものを大河の転校に感じた。悲しいと感じるのは僕が大人になれていないからなのだと思う。
考えてみると、倫理観というのをこのアニメでは適切に保っていて、みな逸脱することがない。けんかはするし、口論はあるが、共依存以上の退廃はない。
共依存のまま、ヒロインと主人公が結ばれるのはよくないので、わざわざ断ち切った――とみることもできる。
結末はあくまで作品の倫理的な要請にしたがったものであって、そこに感情はないのかもしれない。おもえば、どのキャラも妙に倫理的であったというべきかもしれない……(気がする)
作者は純文学好きであった
作者の竹宮ゆゆこは、たぶん偶然ラノベにいったのだとおもう。
趣味・嗜好がまったく2000年代のJ文学のそれで、村上春樹のまねもするし、大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』は大好き、『叫び声』も担当編集とよんだという。
「とらドラ!」の屈折というのは、ぜんぶその純文学を種にして育ったものだとおもう。だから、ははあ、こういう一筋も二筋もいかない展開なのかと納得した。純然たるハッピーエンドではなく、怒濤のすえに崩壊した、そんな印象だった。
竹宮:給料泥棒をしながら解毒、浄化を進めていました。で、その頃に実家を出たんですが、その時に「この本は大事だ、持っていかなきゃ」と思った本のメンツとか、その後も浄化のプロセスを生き延びた大事な本があって。絲山秋子さんの『海の仙人』、『袋小路の男』、『ばかもの』、津村記久子さんの『君は永遠にそいつらより若い』、『ミュージック・ブレス・ユー!!』、長嶋有さんの『ジャージの二人』、『パラレル』、そして本谷有希子さん...。古川日出男さんの『ベルカ、吠えないのか』も実家を出る時に持って出た本ですね。衝撃的に「この本はいいものだ」って、すごく特別感があって、「この本を実家に置いて出られないな」と思いました。
(…)
――それはよかった、と言っていいんでしょうか(笑)。話は変わりますが、一日の時間割って決まっていますか。竹宮:規則正しいです。朝6時から7時の間に起きて、一回外に出るんです。できればジョギングをしたい。なぜなら、村上春樹のライフスタイルに憧れているので。で、運動してセロトニンをバンバン出して、完全に覚醒した状態で8時か9時までには仕事を始めて、すごく濃厚な午前中を過ごしたいんです。という朝型でありつつ、もっと超朝型人間でありたいと思っていて。午前中しかまともに頭が働いていない感じがするんですよ。お昼ごはんを食べちゃうと弛緩しちゃう気がします。締切に追われると一日中仕事をしたりもしますけれど、本当は午前中だけで仕事を完成させたい。だから理想としは、朝4時に起きたいんです。
(…)
――谷崎潤一郎賞を受賞しましたね。
竹宮:そうなんです。読んだ時に「素晴らしいです絲山さーん」と思い、受賞を知って「そりゃそうですよ絲山さーん」って思いました。でも、100%には達していなくて、作品のポテンシャルに対する自分の不甲斐なさを......ってすみません、またこの話に戻ってしまいました。
――最近、読む本はどうやって選んでいるのですか。
竹宮: 担当編集者さんのお薦め、というパターンが多いですね。それで、堀江敏幸さんの『雪沼とその周辺』とか宮部みゆきさんの杉村三郎シリーズとかを薦められました。あとはカズオイシグロ。大江健三郎の『叫び声』を薦められて読んだ後は結構語り合いました。担当編集者さんの男性目線と私の女性目線とではかなり感想が違っていて。今は『火星の人』を読んでいます。すごく面白い。
大人になる前に読んでしまったらそれ以前の自分にはもう二度と戻れなくなるような、そういう本との出会い――一種の通過儀礼が、私にもありました。それはたとえば、恋愛に浮かされるように貪り読んだ大槻ケンヂの小説やエッセイ。私が死んだらお棺に入れて、と本気で父親に頼んだ大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』。親友の部屋で徹夜で回し読みした根本敬。正直いまだに立ち直れた気がしない山岸涼子の『日出処の天子』。
二十歳になる前に出会ってしまったこれらの本に私は変えられ、変えられる前の私には永遠に戻れなくなりました。
でも、そうやって変わってしまった私の傍らに、変わらずにずっとあるのが『うる星やつら』全34巻なのです。
『高慢と偏見』をよむと、結末の大河の行動が理解できる
私は先日『高慢と偏見』を読み終えて、ようやく「とらドラ!」のあの結末が理解できた。
以下、『高慢と偏見』のネタバレ。
『高慢と偏見』では、リディアとウィッカムが突然駆落ちして、大騒動がまきおこる。主人公のエリザベスはこれを哀しみ、父親はロンドンまで飛んで居場所を探り当てようとするが見つからない。結婚したならまだしもいいものの、未婚の駆落ちとなれば世間体は最悪になることを恐れているのだ。
1. リディアの「破滅的な駆け落ち」との対比
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リディアとウィッカム(感情の暴走): 後先を考えず、家族の体面や周囲(姉たち)への影響を一切無視して駆け落ちした。これは周囲に多大な尻拭いを強いる、究極の「エゴと無責任」であり、当人たちも決して真に幸福にはなれない選択として描かれている。
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大河の気づき: もし大河と竜児が、あのまま勢いで逃げ切って擬似家族を作っていれば、それはまさに「リディアとウィッカム」と同じ、周囲に後ろ指を指される無責任な逃亡劇になっていたはず。
2. 竜児の母の「負の連鎖」を断ち切る
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繰り返される悲劇の回避: 竜児の母・泰子は、過去に親(竜児の祖父母)と絶縁して家を飛び出した。もし竜児たちが駆け落ちすれば、「親を捨てて逃げる」という泰子の悲劇を、子ども世代が全く同じように繰り返すことになる。
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大河の論理的選択: 大河は、竜児の祖父母と泰子の「和解」を目の当たりにした。竜児が真に望んでいるのは「二人だけの閉じた幸せ」ではなく、「家族全員が繋がり直すこと」だと理解したのだ。
3. 「偽善」ではなく「自立への通過儀礼」
かつて「突然の正論へのシフト(偽善)」と直感的に不快感を抱いたあの行動は、『高慢と偏見』の文脈(古典的リアリズム)のフィルターを通すことで、全く別の意味を持つ。 あれは、「リディアのように流されるまま転落することを自ら拒絶し、エリザベスのように自立した対等な人間として竜児と結ばれるための、極めて理にかなった清算」だったと言える。だからこそ、自分の実母という「現実の壁」に自ら立ち向かいに行ったわけだ。
……とまあ、古典の力を借りて、ようやくおのれの結婚観を更新した私なのだった。
ラノベ『ゼロの使い魔』をにやにやしながら読む経験
『ゼロの使い魔』という20年前のラノベをこのAmazonセールの機会に、22巻すべて読んだ。
先日などは、1日に5巻かけて無理やり読んだので、最終巻に手を出すときには、目は血ばしり、胸は動悸がして、頭はガンガンという状態だったけど、それでも大河ライトノベルの読後感はある種の感動があった。それは長篇叙事詩的な感動である。
はっきりとした少年向けライトノベル
まずはじめに断っておくと、この小説ははっきりと男性向けのラブコメファンタジーである。主人公はモテ男で、3人から言いよられるし、ラッキーすけべになってくるし、思春期の少年には「うはうは」。そこが徳川期に流行した浮世草子の人情本みたいだ。
だから人情本を、近代的だとか、恋愛小説のさきがけなどと言うのだが、内容的に言うと、男一人に女二人が惚れてしまう三角関係が主で、「梅暦」では、色男の代名詞として明治以後まで使われた唐琴屋丹次郎が、米八という藝者、のち藝者となるお長の二人から思われて、あれこれして、最後はお長を正妻に、米八を妾にするという解決をみる。この一夫多妻的な解決が、近代的でないとして、『書生気質』ではこの解決は回避している。〔…〕
近世の恋愛物語の三角関係は、だいたい男に対する女二人のそれで、王朝物語が女をめぐって男が争うのと対照的である。つまり女性崇拝の精神が欠けている。
(小谷野敦『日本恋愛思想史』中公新書)
要するに、男に都合のいい物語であることは否めないわけで、そこがマチズモだと批判されてもおかしくないのだが、今回はまずこの作品の前提として共有しておく。
私はべつに娯楽小説なら、ミソジニーでもマチズモでもなんでもありだとおもうので、そこに倫理を持ちこむのは野暮だろう。ライトノベルぐらいのお色気要素なら、反吐はでない。
実際、19世紀のディケンズよりも売れた作家――いまでは忘れ去られている作家、George W. M. Reynoldsや、John frederick Smithというイギリスの作家は労働階級向けに安価でかなり扇情的な小説を書いていた。
読者の興味を惹きつけるために、Reynoldsであれば、暴力、凶悪犯罪、凄惨な復讐劇、性的スキャンダル、さらにはオカルト(狼男など)を詰め込んだゴシック・ホラー。Smithであれば、義賊の無法な冒険譚や、誘拐、重婚、毒殺などが入り乱れる激しいメロドラマで、純愛ロマンスと残酷な流血描写を交互に織り交ぜていた。
『ゼロの使い魔』ははっきりと娯楽ファンタジー小説として、すぐれているとおもう。
挫折しなかった理由――文章のよみやすさ
私はこれまでいくつかライトノベルに挑戦してきたが、ことごとく最後まで読めたものはなかった。『涼宮ハルヒの溜息』は疲れたし、『イリヤの空、UFOの夏』は饒舌すぎた、休憩して2年目になる。
『ゼロの使い魔』がその点すぐれているのは、よみやすさ、文章のよさにあるとおもう。ちょっと冒頭を引用してみよう。
「あんた誰?」
抜けるような青空をバックに、才人の顔をまじまじと覗き込んでいる女の子が言った。才人と年はあまり変わらない。黒いマントの下に、白いブラウス、グレーのプリーツスカートを着た体をかがめ、呆れたように覗き込んでいる。
顔は……。可愛い。桃色がかったブロンドの髪と透き通るような白い肌を舞台に、くりくりと鳶色の目が踊っている。ガイジンみたいだ。というかガイジンである。人形のように可愛いガイジンの娘さんである。いや、ハーフだろうか?
しかし、彼女が着ているのはどこの学校の制服だろう。見たことない。
才人はどうやら仰向けに地面に寝転んでいるらしい。顔を上げて辺りを見回す。
黒いマントをつけて、自分を物珍しそうに見ている人間がたくさんいた。豊かな草原が広がっている。遠くにヨーロッパの旅行写真で見たような、石造りの大きな城が見えた。まるでファンタジーだ。
頭痛がする。才人は頭を振りながら言った。
「誰って……。俺は平賀才人」
「どこの平民?」
平民? なんだそれは。周りを囲んだ少年少女たちも、彼女と同じような制服を着て、手に何か棒のようなものを持っている。
アメリカンスクールにでも迷い込んでしまったんだろうか。
三人称一視点だ。心情がまざっている自由間接話法である。
《まるでファンタジーだ。》ということで、ここがファンタジーだと舞台を明らかにしてしまっている。(ほとんど反則みたいなやりかただと思うけど、わかりやすい。)
1巻を読んだあとの、当時のレビューを引用する。
三人称一視点で文章も整っているし、比喩もそつがない。
最初異世界にきた主人公は、《アメリカンスクールにでも迷い込んでしまったんだろうか》と形容するが、これはなかなかリアリティのある形容だ。ほかにも《ルイズの声が、音叉のように細かく震えた》など、初期の比喩は巧みである。
『とらドラ!』や『灼眼のシャナ』『魔法科高校の劣等生』等の文章も見たけど、ここまで達者ではない。一見さんお断りではないのがうれしかった。涼宮ハルヒシリーズが、比喩においてユーモアが光っていたのを思いだす。
こちらは会話劇がすぐれていて、演劇のように仰々しいユーモアがある。作者にはそっち方面の素養があるのではなかろうか。
比喩がたくみなのは冒頭3巻程度なのだが、それでも導入としてわかりやすく、ふだん小説をよまない知人にすすめてみたら、すらすら理解できたといってくれた。
また、一人称一視点のライトノベルが多いなかで、三人称一視点なのは、頻繁に視点が移り変わる映画的なカットをつくるうえでは効果的で、これは作者がもともとゲームシナリオライターなのも関係しているだろう。
そして物語のジャンルとしても、異世界ファンタジー――なろう系などのいしずえに位置する作品だ。この『ゼロの使い魔』じたいは異世界転生ではなく、主人公がヒロインに召喚されるという異世界召喚なのだが、導入から世界観の説明がなされるのでわかりやすい。その構造を、2004年にしていちはやく見いだしている先見性。(当時は、異世界系はメジャーではなかった。)
のちに、ラノベ『Re:ゼロから始める異世界生活』の作者の長月達平に影響を与えたとされ、長月は『ゼロの使い魔』の二次創作を読んでいた。
――おふたりが異世界転生・転移ものを読み始めたきっかけから教えてください。
丸山 元々、俺は異世界ものの二次創作をけっこう読んでいたんですよね。
長月 俺もです。MF文庫Jから刊行されていた『ゼロの使い魔』(以下、『ゼロ魔』)の世界に他作品のキャラを呼ぶ二次創作が流行った時期があったんですよね。『ゼロ魔』自体が異世界転移ものですけど、作品の違うキャラ同士をクロスオーバーさせる作品も、言ってみれば異世界転移ものじゃないですか。
登場人物としても、キャラクターが記号化されていてわかりやすいというのもあるが、文章のうまさのまえには二の次である。
重厚なファンタジー(凝ったといういみ)
そしてこの『ゼロの使い魔』の世界観を決定づけたのは、2巻以降の政治的動向だった。この物語の世界には冒頭からアルビオン、ゲルマニア、トリステインという3カ国が登場するのだが、各国の動きが入り乱れて、まきこまれる。
順風満帆とはいかないのがおもしろく、謀略にまきこまれ、ちゃんと戦争に負けたりするし、予想できない駆け引きが存在する。
はじめは主人公の性格に嫌気がさして、星の点数を下げようとしたけど、ファンタジーはしっかりしている。主人公も活躍する。どんでん返しも効いているとあっては、ヤング向け・ティーン向けファンタジー小説(ライトノベル風味)として、なかなかよく出来てゐる。面白くて、2巻目にして太鼓判を押せるのではないか。
そう、主人公は2巻目にして女の子にいじわるしたりして最低なのだが、ファンタジーの国での危機にまきこまれ、活躍し、ラブコメに発展するのだから、私は舌を巻いた。
7巻前後では戦争ということがテーマになってきて、ラブコメ以外にも作者が伝えたかった要素が伝わってくる。登場人物のひとり、コルベール先生はそういう意味で象徴的な人物だ。
なんといってもラブコメ
さて、ここまで書いておいてなんだが、私はちゃぶ台をひっくり返すことにする。
最終巻までよんだ結果、ではなにを目当てにここまで読んだのかと考えると、もうこれは主人公とかわいいヒロインのイチャイチャしかないのだ。
思えば、このシリーズは3巻以降、主人公とヒロインのイチャイチャめあてにファンタジーを読むという顚倒ぶり。男性の脳をハックしているが、ま、そういうのも技倆のひとつだ。
そうなのである。正直、よみやすい文章とファンタジーという燃料に乗せられて、ふたりの関係というドライブを走らされていたわけで、この作品はふたりの出逢いにはじまり、ふたりの世界で終る。(じっさい、最後はセカイ系めいていた。)
ふたり以外の描写を読んでいると、ふたりの関係がものすごく気になってくる。ふたりはまだかまだか、という気になってくる。
作中では、心情描写――モノローグによるおたがいの気持の吐露がおこなわれており、主人公もヒロインもなやむなやむ、「好き好き」という、妄想が逸脱するなどのオンパレード。もしこの心理描写がなければ、魅力半減ですらある。
そして、主従関係。
貴族のヒロインによって召喚された平凡な主人公は、たがいに主人公と使い魔という関係になるのだが、その一線を超え、貴族という身分も手伝った恋愛設定は背徳的なかんじさえする。(ただし狙ったのかどうか、ヒロインはただの女の子で、あまり背徳感はないし、最初から明白な壁も存在しない。しかもたがいに相思相愛になってからは、もはやツンデレのツンの部分すら失せてしまうデレぐあいなのだが、まあいいか)
カート・ヴォネガット曰く
— フィルムアート社 (@filmartsha) 2026年2月19日
「登場人物には恋愛をさせない」
これについては意見が分かれそう…
『読者に憐れみを』https://t.co/oSzTObl2DI https://t.co/wngzlvdKY8 pic.twitter.com/vDGQogWLr4
カート・ヴォネガットは自身の創作論でこういったが、まあそのとおりなのだ。人間というのは本能的に恋愛=生殖と無関係ではないので、脳内でアドレナリンやオキシトシンなどのホルモンがどばーっと出てしまって、やめられなくなる。
まあ、『ゼロの使い魔』は端的にいえば、そんな甘い蜜みたいな小説だった。読み終えたあと、アニメを見終えたあとには、しっかりと喪失感がのこった。
なにしろ、いまでも頭の片隅には残っているので、脳を動物的にハックする磁力はそなえているといわねばならない。
その他
アニメについて
アニメは4期まで制作された。
かなり満足のいくつくりだ。原作をはしょって時系列を前後させていて、流れがまったく異なるところもあるが、うまくつなげている。アニメが流行した背景には、キャラクターのちからと、声優の釘宮さんのちからの相乗効果におけるところが大きい。
なお、私個人としては原作のほうが丁寧で細かくていいけど、アニメオリジナルストーリーもよかった。ラストは、アニメのほうがきれいに終っているとおもう。
原作の最後について
作者のヤマグチ氏は、原作残り2巻を完結させるまえに亡くなったので、生前に完結したアニメと、死後に完結した代作とでは、結末の流れが異なっている。
代作の2冊はかなり苦労したとおもう。
21巻は語彙がちがう、心理描写も減ったし、なにより駆け足だった、それに原作より性的になっている等の欠点もあるが、22巻はよく推敲しただろう、違和感が「ゼロ」に近かった。なによりプロットは原作者どおりだし、大団円なのがうれしかった。
場違いな結論――エンタメと純文学の違いについて
あらためて、科学的に通俗小説と純文学のちがいを考えてみると、前者は脳の報酬系をハックしてドーパミン・アドレナリンを出させている、後者はそのような即物的な快感はうすいが、共感や洞察などの認知処理を引き起こす。といえるのではないか?
しらべたら、下のような論文もあった(批判はあるそうだが)。
論文タイトル: Reading Literary Fiction Improves Theory of Mind (純文学を読むことは「心の理論」を向上させる)
著者: David Comer Kidd, Emanuele Castano
掲載誌: Science (2013年)
と、エンタメと純文学の違いについて明らかにしたところで(なんだか場違いだけど)この記事を終える。
25年に読んだ本のなかでは『細雪』が最高でした
先日、NTTのやってる令和の語彙テストをやりました。
小説家の宮内悠介さんが「だいぶ知らない言葉があって悲しみ…」みたいなことをつぶやいていたのでそのスクリーンショットを見てみたのですが、11万語ぐらい知っていました。え?どこが?語彙多くね?とおもいました。(記憶で語ってるのでちがってたらスミマセン。)だから僕もやってみたのです。
そしたら自分は8万語ぐらいで、やっぱりがっかりしてしまいました。おいおい、読書しても結局は8万語かよと。三島由紀夫みたいに辞書読むしかないのかよと。
でもまあいいです。どうせそんなもんだし。語彙力ない小説のほうが実在感があるかもしれないとおもって、前を向きます。
小説篇
谷崎潤一郎『細雪』新潮文庫
これはくつがえらないでしょう。
この文章は2025年の11月に書いているのですが、今後、年内にこれを超える読書には立ち会えないとおもう。「源氏物語」や「ジャン・クリストフ」を読まない限り、ですが。
以前は文豪をばかにしていました。
たとえ友達が話題つなぎのために「君の好きそうな日本文学者の相関図を見つけたよ」とLINEで送ってきても、冷たい返事で無下にして、そのまま返信が来なかったことさえあります。
それは丸谷才一のせいですが、(と、すぐひとのせいにするのですが)丸谷才一を信じていた時期が一時期あり、かれが明治以降の自然主義リアリズムを排したために、僕は明治大正周辺の作家達全員に悪感情を持ってしまい、ただ無関心に努めてきたのです。それがたたって、面白い小説をたくさん逃がす羽目になりました。
実際こういう文学青年は多いとおもいます。日本の小説を忌避して、海外のポストモダン小説に全霊を傾ける。純文学を見限って娯楽小説に行く。その挙句、老年になってその印象が抜け切らずに、日本文学に偏見をいだいてしまっている。
しかし、それが解けたのはつい最近の事でした。
小谷野敦のおかげで、私小説というものにも面白い物と不味い物とがあって、後者にしか目を向けてこなかったという反省が雲のように湧いてきたのでした。
『細雪』は初め、ちょっとだけ読んでやろうと思っていたのですが、ずるずると引きずられるようにして、いつのまにか下巻まで読んでいました。
読み終えて、仲直りをした気持になりました。
これは名作です。
永井荷風の「細雪妄評」には、『細雪』がフローベルの『感情教育』や『ボヴァリー夫人』に匹敵すると書かれています。さらには、人間と思想を小説の根本に置くというかれの考えが紹介されていて、同調しました。
この小説は全篇、観察によって成り立っています。どういうことかというと、谷崎がいっとき住んでいた大阪の家庭が舞台で、船場言葉を話す登場人物やその説明がありありと動いているのです。
原作は青空文庫で読めるので、ちょっと冒頭を引用してみます。
「こいさん、頼むわ。―――」
鏡の中で、廊下からうしろへ這入 って来た妙子 を見ると、自分で襟 を塗りかけていた刷毛 を渡して、其方 は見ずに、眼の前に映っている長襦袢 姿の、抜き衣紋 の顔を他人の顔のように見据 えながら、
「雪子ちゃん下で何してる」
と、幸子 はきいた。
「悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」
―――なるほど、階下で練習曲の音がしているのは、雪子が先に身支度をしてしまったところで悦子に掴 まって、稽古 を見てやっているのであろう。悦子は母が外出する時でも雪子さえ家にいてくれれば大人しく留守番をする児であるのに、今日は母と雪子と妙子と、三人が揃 って出かけると云うので少し機嫌 が悪いのであるが、二時に始まる演奏会が済みさえしたら雪子だけ一と足先に、夕飯までには帰って来て上げると云うことでどうやら納得はしているのであった。
「そやった、あたし『B足らん』やねん。こいさん下へ行って、注射器消毒するように云うといてんか」
脚気 は阪神地方の風土病であるとも云うから、そんなせいかも知れないけれども、此処 の家では主人夫婦を始め、ことし小学校の一年生である悦子までが、毎年夏から秋へかけて脚気に罹 り罹りするので、ヴィタミンBの注射をするのが癖になってしまって、近頃 では医者へ行く迄 もなく、強力ベタキシンの注射薬を備えて置いて、家族が互に、何でもないようなことにも直 ぐ注射し合った。そして、少し体の調子が悪いと、ヴィタミンB欠乏のせいにしたが、誰が云い出したのかそのことを「B足らん」と名づけていた。
ピアノの音が止 んだと見て、妙子は写真を抽出に戻して、階段の降り口まで出て行ったが、降りずにそこから階下を覗 いて、
「ちょっと、誰か」
と、声高 に呼んだ。
「―――御寮人 さん注射しやはるで。―――注射器消毒しといてや」
「B足らん」という内輪の言葉が、ありありと家庭の様子を浮かび上がらせていて、面白いです。
そして、次の抜粋は僕の好きな兎の耳の場面なのですが、
悦子が綴方に書いたのはこの兎のことなのであった。雪子は毎朝、悦子を起して朝飯の世話をしてやり、
鞄 の中を調べた上で学校へ送り出してやってから、もう一度寝床へ這入って温 まるのであるが、その日は晩秋の寒さが沁 みる朝だったので、寝間着の上に羽二重のナイトガウンを羽織り、鞐 も掛けずに足袋 を穿 いたまま玄関まで送って出ると、悦子がしきりに兎の一方の耳を持って立てようとしていた。そして、いくら立てても其方 の耳が立たないので、「姉ちゃん、やってみてえな」と云った。雪子は悦子を遅刻させないために、早く手伝って立ててやろうと思ったけれども、そのぷよぷよした物に手を触れるのが何となく無気味だったので、足袋を穿いている足を上げて拇 の股 に耳の先を挟 んで摘 み上げた。が、足を放すと、直ぐ又パタリと兎の横顔の上へその耳が垂れて来るのであった。
「姉ちゃん、何で此処 いかんのん」
悦子は明くる朝、綴方が直されているのを見ると云った。
「いややわ、悦ちゃんは。足でした云うこと書かんかてええがな」
「そんでも、足でしたやないの」
「そら、手で触 うたら気味が悪いよってに、―――」
「ふん」
と云ったが、腑 に落ちないらしい顔つきで、
「そんなら、その訳書いたらええやないの」
「そうかてそんなけったいな恰好したこと、書けますかいな。先生が読まはったら、えらい行儀の悪い姉ちゃんや思やはるがな」
「ふん」
悦子はそれでもまだよく呑 み込めないらしかった。
これだけでも魅力はよく伝わるとおもいます。
文庫版は、注釈が丁寧な細江光版の新潮文庫がおすすめです。ちなみに、僕はあとで全集で買い直しました。
佐伯一麦『ノルゲ』講談社文芸文庫
「ママがあなたと同じ学生になって、どんな感じがする?」
と妻が訊ねると、ちょっと小首を傾げてから、
「ちょっと変な、不思議な感じがする。でも悪くない感じ」
とミリアムは、母親に向かってはにかむように微笑んだ。
爽やかな読後感でした。なんといってもノルウェーの生活と、それに格闘する〈おれ〉。
その異国文化が面白いのは当然として、淡々と〈おれ〉によって綴られる人との出会いやエピソードに、すくなからず小さなドラマを感じます。
ほんとうにいろんなひとがいる。
たとえば一瞬出てくる親父さん。かれは、主人公がたまたま路面電車トリッケンで見かけた先の魚屋の店主なのですが、英語が不得意であまり話せない。魚を頼むと、巨大な冷凍のをそのまま電ノコみたい機械で切ってくれます。
ある日かれは魚をすすめてきます。しかし英語ではなくノルウェー語なので、それがどんな魚か分からない。主人公はすすめられるまま、それを奥さんと食すことになるが、これが意外に美味しくて身がホロホロと崩れる。そして〈おれ〉は後日、また親父を訪ねていってその魚のことを尋ねてみる。……
あるいは、スウェーデンの国境付近に伺ったときの、妻の同級生の旦那さんのエイヴァン。かれは競走馬を馬小屋で飼っていて、そのお手伝いとして十四歳のエスペンを預かっています。その子はほんとうに馬を愛しているのですが、どこか訳ありである。……
それから、通りを行った辻に立っていた大学生の青年。かれは冬に備えて鳥たちの食料のカンパを求めていて、〈おれ〉が鳥の啼き声に関心があるのを知ると、トランクの中から自主制作の鳥の啼き声テープを取り出した。……
ほかにも、ノルウェーの中華レストランのミセス・チェン。彼女は〈おれ〉に紹興酒をふるまうのですが、〈おれ〉にたいしてあるかんちがいをしてしまいます。……
などなど、筆舌に尽くしがたい人物がやまほどいます。それらで埋めつくすときりがないですが、確実にいえるのは「ほんとうに世界にはいろんなひとがいる。」ということでした。
僕がもっとつづきが読みたいな。とおもったところでこの小説は終りました。そこが『細雪』とおなじです。毛色はちがうのに、共通点を感じさせました。
そしてよくよく考えてみると、私もこの読書に癒やされていたのだと感じるのでした。
最後に、ノルウェーの大学で卒業制作に取り組む妻の言葉を抜粋します。
「最近はこんなことを思うの。人生は、 経糸 と 緯糸 の織りなすタペストリー、って歌の歌詞にもあるように、しばしば織物に喩えられるでしょ。でも、『織り』と『編み』とはちがうって。『織り』は経と緯の二本の糸で構成させるのに対して、『編み』は一本の糸だけで平面を生み出す。一度進んだら後戻りできない『織り』と、もう一度ほどいて再構成することもできる『編み』。『織りの人生』というものがあるならば、『編みの人生』というものもあるんじゃないかしらって」そんなことも口にした。……
小説以外
松本哉『世界マヌケ反乱の手引書 増補版 ――ふざけた場所の作り方』ちくま文庫
まず文体がおかしくてエクスクラメーションマークばかりで笑ったのですが、内容もおかしいです。大晦日に山手線内でゲリラ宴会をひらいて、ちゃぶ台、乗ってきた他人に酒を振る舞うなどという全くのアホさ加減に笑いました。
著者は低価格で楽しめる趣味を追求していて、リサイクルショップを経営しているらしい。海外のライヴ経営の話や、西欧の家を勝手に乗っ取るヒトビトも出てくる。ヤヴァイおもしろい場所を知りたいなら必見でした。
村上春樹・河合隼雄『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』新潮文庫
村上春樹って自分語りをしないひとです。ほんとうに小説に自分が出てきません。いや、主人公の性格には出ているのですが、親とか友人とかそんなものはあまり出てこない。デタッチメントとよくいわれます。
でも、この本ってかなり珍しくて、自分語りが出てくるんです。対談なのですが、話題は多岐にわたって、オウム真理教のことや、自分のこと、ねじまき鳥の暴力のこと。紫式部のこと。平和憲法。いろいろあるんですけど、考えが知れて珍しい。
村上 おたずねしてみたかったんですけれど、夫婦というのは一種の相互治療的な意味はあるのですか。
河合 ものすごくあると思います。だから、苦しみも大変深いんじゃないでしょうか。夫婦が相手を理解しようと思ったら、理性だけで話し合うのではなくて、「井戸」を掘らないとだめなのです。
村上 ぼくも結婚して二十五年になりますが、それはすごく感じるんですよね。ただ、これまではあまりにもそれが近くに、切実にあるので書けなかったんです。
ぼくの小説の登場人物というのはだいたい独りだったんです。ぼくの小説は両親が出てこないのです。子どもも出てこないのです。それから、奥さんも出てこないことが多かったですよね。出てくるのは友だちとか、あとは 娼婦 とか。ところが、やっと『ねじまき鳥クロニクル』で夫婦というものを書けるようになったんですね。
僕自身は結婚してから長い間、結婚生活というのはお互いの欠落を埋めあうためのものじゃないかというふうにぼんやりと考えていました。でも最近になって(もう結婚して二十五年になるのだけれど)、それはちょっと違うのかなと考えるようになりました。それはむしろお互いの欠落を暴きたてる──声高か無言かの違いはあるにせよ──過程の連続に過ぎなかったのではないかと。
結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。他人がやってくれるものではない。そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを、自分できっちりと認識するしかない。
それと次の言葉。これは村上春樹が小説家として言葉の責任について真面目に考えているスタンスでした。
村上 ぼくが日本の社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、だれも痛みをひきうけていないですね。文学者の反核宣言というのがありましたね。あれはたしかにムーヴメントとしては文句のつけようもなく正しいのですが、だれも世界のしくみに対して最終的な痛みを負っていないという面に関しては、正しくないと思うのです。
そういう意味では、ぼくは村上龍というのは非常に鋭い感覚を持った作家だと思っているのです。彼は最初から暴力というものを、はっきりと予見的に書いている。ただ、ぼくの場合はあそこへ行くまでに時間がかかるというか、彼とぼくとは社会に対するアプローチが違うということはありますが。
そういう意味でこの本を取り上げます。
あ、まだ村上春樹を読んだことのない人は『風の歌を聴け』を読んでください。
小川哲『言語化するための小説思考』講談社
いままでの小説作法とはどこかちがって新鮮でした。というのは、小説思考を語っているのですが、著者は頭がいいなと、すなおにかんじました。
たとえば、次は文体について語った文章ですが、文体そのものよりも文章の順番が大事だという。
文章で何かを表現するとき、「順番」をどうするか決める必要がある。というか、僕は「順番」を決めること以上に重要な要素はない、と考えていたりもする。視点をどうするか、修飾語を増やすか、どういう比喩を使うか、一文の長さはどうするか──そういう点に頭を悩ます人は多いが、そもそも正しい「順番」で書くことができなければ意味がない。
「情報の順番」は小説という空間の立ち上げ方を規定する。書き手が生みだした小説空間に、読み手をどのように招き入れるかを決める。そういう意味において非常に重要な要素なのだが、実際にはあまり考慮されていないような気もする。
これは全くそのとおりなのですが、いままで読んだどのプロの小説家の本にも書かれていなかったことだと思います。(それだけ当たりまえのことなのかもですが。)
それに次の文章は、読みやすさ=価値ではないことを語っていて、読みながら同感したものです。
「読みやすさ」とは「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことによって感じられるものなのではないか、と僕は考えていて、それを実践するために書いた文章なのだ。
とはいえ、「読みやすい」ことは「価値がある」ことと同義ではない。「読みやすさ」が「情報量の差の最小化」から生まれるのであれば、視点人物である「私」がどのように世界を認知したかという点は 蔑ろにされる。文章中の「私」の認知と思弁は、 恣意的 に順番を置き換えられた不自然なものになる。
そして小川さんが「小説は作者と読者のコミュニケーションでもある」として、雑談について考えることが小説について考えることになるといっているのですが、そうですよね。
むかし丸谷才一(また丸谷才一)が「ゴシップ的日本語論」ということをいって、ゴシップが文学の源泉になっていると言ってました。そして小谷野敦が『退屈論』で、人間にはもともと原始からゴシップ的興味があり、それが言葉を話す動機になったのではないかと仮説を立てています。だから私小説はおもしろいし、キャラクターの立った、人間の出てくる小説はおもしろいとおもいます。
その意味で、雑談について考えること、すなわちどう物語を語るかを考えることにつながっていく。小川さんの言っていることはゴシップ的だと、僕はこれを書いておもいました。
鬱エンドと、ハッピーエンド
昨日、超能力推理ゲームをやったら、ほぼ鬱エンドだった。
特色としては、珍しい。いくらか現代に接続した社会派で、その世界に渦まくさまざまな不条理を全面に置いている。
たとえば、望まぬ超能力をさずかった子供、超能力改良された畜産物。現代に置き換えれば、イコール遺伝、イコール遺伝子組換え。だ。
最終話に向けての過程で、誰も救われないな。と感じ、そのやり場のないモヤモヤを発散させることができずに、眠り、夜中に目がさめ、また眠った。
そんなことがあった。
最後に、希望が見えるかたちの幕引きと、後日談があった。しかし、やはりグレイでメランコリーな気持にやり場はなかった。
「架空の物語」という閉じた世界の結末は、現実の私たちがどうあがいても回避できない。われわれがどのように妄想し、手を尽くそうとしても、架空の世界には何の影響も及ばさない、むなしさがある。しこりとして残っている。
私が考察系や推し、架空に深く深く依拠することの、恐しさ。その理由はそこにあるかもしれない。
昨日、そのゲームをプレイし終った後、なかば放心状態の私が思いだした文章がある。読みたくて、電子書籍をひもといた。
そういう時サイードがいったように、「人間の問題だから、これはある時を置けば明るい方向に解決の兆しは見えるものだと信じる」というのがね、どうも一番苦しい状態にある人間の物の考え方、感じ方なんじゃないか。それがあるから人類ってものは存在し続けてきたんじゃないか、という気持ちをずっと持ってるんです。
そこで、こうもいえますね。やはり私は、予定調和的にというのでもないけれど、最後には明るい光が射してくるということを無理にでも信じて小説を書いて生きてきたらしい、と。そして、自分の文学観としてはそれでいいんだけど、今度は自分自身の死という決定的なものが近づいてきます。
「励ます」という単語を、電子書籍で横断的に検索した。そして、大江氏自身の小説で、その言葉がたくさん使われていることを発見した。
私が児童文学に一目置いているのは、それが明るい気持ちになって終れるからだと、そのとき気づいた。
「架空の物語」は、それが架空でも、しっかり現実に影響を及ぼす。ハッピーエンド。まで行かずとも、希望が見える締め方で、物語を閉じてほしいと願う。
苦しみは、すくない方がいいから。
おれが24年度に読んだ本を評価する
偉大なる熱量を抱いてレヴューをすることができなくなった。北杜夫の記事でもそうだった。ひとつはすでに忘却したのもあるし、もうひとつは激烈な文言を呈して、絶賛する。それに欺瞞を感じるから。そして、いちばん大事なことは、読者層の薄い文章に熱意を傾ける、エネルギーの消費を厭うようになったから。
ひさびさに24年度読んだ本から、ベストをふりかえってみる。
小説篇
酒寄進一訳 クルト・ヘルト『赤毛のゾラ』福音館文庫
はじめに、この児童文学。
これは意想外の名作だった。24年、いちばんの収穫だったとおもう。
誰だって「赤毛のアン」と空目するタイトルで、私もひっかかった。だが、それがよい出会いをもたらした。Twitterでは、邦題がよくないといっているひともいたけど、むしろ原題に忠実だ。
「赤いゾラとその一味」(Die rote Zora und ihre Bande)という題名。英語版では、「ウスコック城ののけ者たち」という題。
舞台はクロアチアで、男の子のブランコが母親を亡くしたところからはじまる。父親は腕利きのバイオリニストだけど、放浪中でどこにいるかわからない。いちおう、孤児である。(児童文学の定石どおり。)
魚を盗んだかど(じつは冤罪)で警察署にいれられ、そこを女の子のゾラが助けにくる。ゾラは赤毛で、ウスコックの戦士をなのっている……
その根城が街をながめおろすウスコック城なのだけど、描写は草木、生き物。にあふれて、たのしいのだ。ニワトコも出る。
たとえば、こんな場面。
ゾラといっしょに、他の仲間に内緒で城をあがる。コウモリの間を抜けた先で、階段のすきまにチョウゲンボウのひなが見える。いとしい。あがったウスコックのてっぺんの景色は雄大だ。手にとるように伝わってくる。
また、ブランコとゾラ、そしておじいさんが舟に乗って漁に出る光景。
「魚はみんな、岸に向かってる。あれを一網打尽にすれば大漁だ」
ブランコたちはだんだんコツをつかんで、大物のときは、網をつかんだまま、両手で魚をつかめるようになった。ふたりは目を皿のようにして浮きと魚ばかり見つめた。
ふたたび沖に向けてこぎだしたとき、とつぜんブランコが立ちあがった。
「どうしたの?」ゾラがたずねた。
「見てごらんよ!」ブランコは海のかなたを指さした。
すばらしい光景だった。
夜が白みはじめたので、もうすぐ太陽がのぼる予感はしていた。そしていま、水平線に上のとがった明るい光の筋があらわれ、やがてピラミッドのような形になってせまってきたのだ。
「太陽よ」夜明けの海を知っているゾラはそういって、顔にかかった髪をかきあげた。
ブランコはあいかわらず立ったまま、日の光に見とれていた。しだいに明るくなり、ついに太陽が顔をだした。燃えあがる風船さながらに山並みの上にうかびあがった。太陽の熱でなにもかもが蒸発したみたいに霧がたなびいた。
「このあいだの夕陽よりもきれいだ」ブランコは声をもらした。
「まだこれからよ」ゾラも真っ赤な太陽を見つめた。「もっときれいになるわ」
日の光に照らしだされた大海原は一面銀色にかがやいたかと思うと、太陽がのぼるにつれて金色に変わった。
「うわっ」ブランコはため息をついた。「海が純金になったみたいだ。ちょっとでもすくえたらな」
「それじゃ、ほら、あげるわよ」ゾラはブランコの顔に水を引っかけた。
意図しないで流れ出てくるような自然描写は、さいきんの小説にはないものだとかんじる。まさに自然にかこまれていた。
そして、挿絵は西村ツチカさんだ。このイラストはすごく好きだ。往年の児童書のようにおどろおどろしくなくて、どこかユーモラスな空気をかもす。細い線画、あわく、特徴だつ。訳者の酒寄進一さんも気に入って、岩波少年文庫でもタッグを組んだほどだ。(酒寄さんのTwitterから。「ベルリン」3部作。)
「長くつ下のピッピ」にも影響をあたえたようだ。
作者はドイツのクルト・ヘルト。これは偽名である。
和田芳恵『暗い流れ』小学館P+D BOOKS
うってかわって、これはおとな向け。といっておく。
とんでもない本である。
幼少期からの自伝小説なのだが、体験がすごい。
冒頭からハレー彗星を見た場面ではじまる。母親におぶさって彗星をみながら、母親の背中で尿をする。唐突にそんな場面。
小学校を出たばかりの、村の農家の娘のシモが家事を手伝いにきていた。
ぱったりこなくなった。どうしたんだろう。とおもって、幼少の吉平の「私」は会いに行く。そこでシモにお風呂に入らないかといわれて入浴するのだが、
「さあ、いらっしゃい。洗ってあげます」
シモの膝は石鹸にまみれて、抱かれている私は洗ってもらいながら、不安定であった。
シモは私の前へ触ってから、
「吉っちゃん、たちあがって、わたしの肩におしっこをかけてごらんよ」
と言った。
シモは左の肩のあたりの窪を、ちょっと手でおさえて、
「このあたりにしてちょうだい」
と頼んだ。
もう冒頭、たった13ページ。これ以上ネタバラシしたくないのでもう書かないが、こんな自伝は見たことがない。
また、べつの場面。
いとこの道代が遊びにきた。道代は三つのとき、炉に火鉢を持ったまま落ちて火傷した。怪我は、祖母が目を放したすきにおきた。道代の母の貞子は気が転倒して、「おばあちゃん、返して……」といい、父の多助は離婚したがっていた。
貞子が多助と別れそうな様子は祖母を不安にした。貞子が花田の家を出ようとしている原因に道代の火傷もあるらしかった。
踏込みの大きな炉が、狂った祖母の目には地獄の大きな釜に見えた。釜の中には油が煮えたぎっていて、恐ろしいのだが、順番が来ているので、祖母は、どうしても裸にならなければならぬと思った。釜のまわりを小走りに逃げまわっているうち、祖母は外へ飛びだしていた。
裸の祖母は表通りから海へ出る道を抜けて、玫瑰(はまなす)が生えた砂丘に出たところで立ちどまった。玫瑰の木の棘で足から血が流れていたが、祖母は痛みを感じないようであった。
祖母は多助に捉えられ、素直にきものをきせられていた。多助におぶさって、祖母は上機嫌だったが、家にはいるとにわかづくりの座敷牢ができていた。
「多助、お前の遣りそうなことだな。早手まわしに、こんなむごいことをするのは、わたしの生んだ多助をおいて、他に誰もいまいよ」
祖母はエヘンと咳払いをしてから、牢の木枠を思いっきり、ゆさぶった。元結の切れた白髪が祖母の肩に振りかかった。多助を知り抜いているのは、やはり祖母だと貞子が思ったとたん、熱い湯のような涙が噴きこぼれた。
私小説の醍醐味か。とおもった。
想像の及びつかないところがある。当時は本当の羞恥を知らないから、想像の低俗とは違って、生々しさの猥褻さが際立つ。とうてい想像では書けない。そんなことばかりだ。創作の情事がしらじらしくなる。ごく幼少の、思春期まもない性的体験の貴重な自伝は、筆さばきも冗長を嫌って達者だった。
西尾維新『クビシメロマンチスト』講談社文庫
これはアレだ。西尾維新の偉大なる2作目にして最高傑作。西尾維新ファンはこういう。
私は『猫物語(白)』と『刀語 第一話 絶刀・鉋』をよんで、辟易していた。
しかし、ファンにすすめられたこれは、たしかにおもしろかった。キャラクタが立ちすぎている。すべて誇張された人物だが、どれも魅力あるものに仕上がっている。飛んだり跳ねたり。のちの、水で薄めたやうなモノローグはない。
そして、セリフ。
「しかしここで食事という概念に取り 憑かれた人間を想定しよう。つまり食い物が味覚神経に与える刺激、口内を通り抜けるときの快楽、口内で 咀嚼 するときの悦楽、溶け合ったそれらが流動状となり喉を抜けていくときの愉悦。満腹中枢が破壊されんばかりの充足感、脳内を支配する幸福感。栄養なんざじゃなくて《そういうもの》、食事それ自体に魅力を覚えてしまいメロメロになっちまう奴、そういう人間を想像しよう」
まあつまりはデブのことだが、と零崎は笑う。
「そういう人間に対して栄養がどうたらいう妄言は意味をなさない。手段が目的に入れ替わって本来の目的はただの付随物以下に成り下がってしまうわけだ。しかしてここで問題だ。こいつは食事をしていると言えるだろうか? いやいやお前の解答を待つまでもない、答は絶対的な否だ。こいつが行っている行為は食事ではない。ただ、食事という概念を喰っているだけさ」
「……なーにやってんだろうな、みんな」むいみちゃんは首をそらして、ラウンジの外を歩いている学生達を見ながら、言った。「本当、みんな、なにやってんだろうな」
「みんなって?」
「みんなさ。ここにいるみんな。くっだらない……生きてるだけじゃないか。死んでないってだけ。生きてるだけじゃないか」
生きてるだけじゃないか。
印象的な寸言は随所にちりばめてある。私はまた、村上春樹の『風の歌を聴け』をおもいだす。村上の影響ははかりしれないなとおもうのだ。(しかし、それはまた、大江健三郎からの系譜だ。)
読了して、ニヒリスティックな青春がうかびあがった。人生観。意味を問う。問われる意味はない。(小林秀雄みたいだ。)
小説以外
橘玲『テクノ・リバタリアン』文春新書
さいきん、こういう記事を見つけた。
ロス・ウルブヒトは2011年にダークウェブ上で、「シルクロード」というサイトを立ちあげていた。なんでも売買できるを名目にかれのサイトを使って、だんだんドラッグなども取引するひとがあらわれる。かれもその手数料で、一年に数十億ドルもかせいだ。
かれはリバタリアンである。リバタリアンたちがロスの自由を訴え、トランプ大統領が恩赦をした。
なぜか?
テクノ・リバタリアンはいまアメリカの軒なみの富豪として、そしてトランプ政権の中心を兼ねている。政府効率化省のイーロン・マスクもリバタリアンだし、PayPal、OpenAIの創業者、Facebookの取締役だった(そしてトランプの応援もした)ピーター・ティールもリバタリアンだ。
一方のピーター・ティールは、民主党支持のリベラルが大半のシリコンバレーで、2016年の米大統領選でドナルド・トランプを支持したばかりか、共和党の全国大会で応援演説までした。この〝逆張り〟のギャンブルに勝ったティールは、トランプ政権発足時に有力な顧問の一人になり、ティム・クック(アップルCEO)、ジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)、ラリー・ペイジ(アルファベットCEO)、シェリル・サンドバーグ(フェイスブックCOO)、サティア・ナデラ(マイクロソフトCEO( 25))、イーロン・マスクなどシリコンバレーの大物たちを一堂に集め、新大統領を囲む会合を取り仕切った。これによってティールはアメリカのハイテク業界で大きな影響力をもつようになり、オンライン政治メディアのポリティコは「影の大統領」と呼んだ。
なぜか?
この新書は、いまアメリカの動向を左右するリバタリアニズムを知るうえで、たいへんな好著だった。
まず、混乱した右翼と保守、リベラルと左翼のちがいについて、丁寧に図解し、そのうえでリバタリアンはここに位置していると説明する。
そして、知能とは遺伝である。と(教育界隈の禁忌に)触れる。
シリコンバレーの富豪たちを見ればわかるように、高度化する知識社会では、並外れた論理・数学的知能とイノベーションの能力には巨大な価値がある。だがハイパー・システム化した脳タイプをもつ者は、「自閉症の子どもを生み出す可能性が極めて高い」のだ。
アメリカの調査では、自閉症の発症率は一般人口の1~2%だが、もっとも裕福な330家庭のうち 27 家庭(約8%) に自閉症の子どもがいた。MIT(マサチューセッツ工科大学) の同窓生のあいだでは、自閉症の発症割合は 10%にも上ると 囁かれている。
この話を聞いたバロン=コーエンは、MITの卒業生にアンケートを送り、自閉症の子どもの割合を調べようとした。同窓会は同意したものの、MITのブランドが傷つくことを恐れた学長命令によって調査は中止になったという。
そこで代わりに、「オランダのシリコンバレー」と呼ばれ、工科大学とハイテク企業のあるアイントホーフェンを対象に調査が行なわれた。1万人あたりの自閉症の子どもの数は、人口が同規模のユトレヒトでは 57 人、ハーレムでは 84 人だったが、ハイパー・システマイザーたちが集まるアイントホーフェンでは1万人あたり229人の自閉症の子どもがいた。
これらの調査からバロン=コーエンは、自閉症の子どもが急増している理由のひとつは同類交配(アソータティブ・メイティング) だと推測している。学歴社会ではシステム化能力に恵まれた者同士が大学やハイテク企業などでますます出会いやすくなり、彼らの間に多くの子どもが誕生する。「高く調整されたシステム化メカニズムは卓越したマインドを生み出すことができるが、さらに高いレベルに達した場合に、学習障害として現われる可能性がある」のだ。
──シリコンバレーの〝不都合な事実〟は、ジェンダー比率が極端に男に偏っていることだが、さらに〝不都合〟なのは、ヨーロッパ系白人(とりわけユダヤ人)とインド系、東アジア系に人種構成が大きく偏っていることだ。これはきわめて政治的に微妙な問題なので、本書でも触れない。
ガラパゴス化した日本では、このようなリバタリアンという単語すら聞いたことがなかった。しかし、西欧のメディアでは使われている。
日本の会社で合理化・効率化が嫌われるのは、リストラの道具になるからというよりも、これまで安住してきたウェットで差別的な人間関係(日本ではこれが〝理想の共同体〟とされる) が破壊されてしまうからだ。その結果、日本では右も左も「グローバル資本主義の陰謀から日本的雇用を守れ」と大合唱することになった。
「自由」を恐れ、「合理性」を憎んでいる社会では、リバタリアニズムや功利主義が受け入れられるわけがない。日本ではヨーロッパ哲学やフランス現代思想(ポストモダン) については数え切れないほどの本が出ているが、リバタリアニズムは無視されるか、アメリカに特有の奇妙な信念(トランプ支持者の陰謀論) として切り捨てられている( 132)。
だがリバタリアニズムは、いまや指数関数的に高度化するテクノロジーと結びつき、世界を変える唯一の思想=テクノ・リバタリアニズムへと〝進化〟している。ところが日本の偏った言論空間に囚われていると、イーロン・マスクやピーター・ティール、あるいはオープンAIのサム・アルトマンやイーサリアムのヴィタリック・ブテリンがリバタリアンであることの意味がまったくわからない。
残酷な真実か、はたまた……? これからの世界の未来が見えてきそうで、昂奮した。
この本は前原政之さんから知った。
渡邉正裕『「いい会社」はどこにある?』ダイヤモンド社
うさんくさい本だとおもって読んでみたのだが、これも驚くべき名著だった。
著者は元新聞記者で、広範な取材によって日本大企業の業界構造がうかびあがるのだが、その説得力が生半可ではない。何人ものにひとにインタビューを重ねたという。
半導体も、製品自体は1 ㎝ 程度だが、製造装置に莫大な投資が必要となる、インフラ産業の1つ。私が取材したなかでは、大手ルネサスエレクトロニクスを辞めた 40 代開発者の話が、実に印象深かった。主に、自動車に搭載される半導体を設計していた技術者だが、事故に遭ったことをきっかけに早期退職していた。
「休日に高速道路で軽自動車を運転していて、自分の不注意で前の車(バン) に追突事故を起こしてしまったのです。前の運転手がムチ打ちで、自分は、内臓破裂。胃が燃えるように熱くなり、腸の血管が切れ、内出血でした。シートベルトはしていましたが、ハンドルにぶつかって。救急搬送され、全治3カ月で、2回の手術を受け、4カ月間、会社を休みました。そのとき感じたのが、『死ぬときに貧富の差はない』ということ。そして、『自分が組織の歯車だったこと』。薄々、わかりながら働いてはいましたが、製品化の直前に事故で休んだのに、なんの遅延もなく製品が納入されていました。人生観が変わりました」
繰り返しになるが、歯車だって、重要な仕事である。社会にとって不可欠で、職業に貴賤はない。ただ、個人のやりがいとしては、自分ならではの仕事、オリジナリティーを出しやすい仕事に、なるべく若い段階から就けたほうが、死ぬ間際に後悔しにくいのだろう——ということだ。
日本の岩盤規制の闇――イノベーションが起きない構造にも触れている。
同様に、医師会、JA、郵便局、新聞テレビといった、いわゆる岩盤規制の改革は一向に進まないどころか、逆に、新聞への軽減税率 適用 のように、保護が強まっているほどだ。米国のように新聞社が潰れれば、そこにいた人たちが新メディアを立ち上げたり、新しいテクノロジーと融合した新規事業の参入が起こり、新しい組織では年齢に関係なく実力主義で、若手が活躍しやすくなる。これが起きず、規制ガチガチのまま停滞しているのが、岩盤規制業界である。
※3 日刊紙の消費税は8%で、本書を含む他の出版物の 10%に比べ、2%の税制優遇を受けている。2019年 10 月に8%→ 10%に引き上げられる際に、食料品以外では新聞だけが特別扱いされ、軽減税率が適用された。また、民主主義国においては言論・報道の多様性を確保するために新聞とテレビを同一資本下においてはならないとする「マスメディア集中排除原則」も、日本のマスコミ企業は適用を逃れている。日本経済新聞社は子会社にテレビ東京を持ち、その社長は代々、日経からの天下りポストで、物言う株主(香港の投資会社リム・アドバイザーズ) から「天下り禁止」「顧問制度の撤廃」「株主利益に沿った社外取締役の就任」を求められている。
※4 電波オークション=電波の利用権を競りにかける制度。経済協力開発機構(OECD) に加盟する 35 カ国の中で、日本以外の 34 カ国が導入済みであり、日本だけが未導入である点について、内閣府の規制改革推進会議が疑問視してきた。テレビ局は自らが既得権者であるため、この問題を報道することはない。総務省の裁量行政で電波が割り当てられるため、たとえば4K衛星放送事業者としての認定がほしい東北新社が菅首相の息子を社員として雇って総務省の役人を繰り返し接待したり、携帯電話の電波を使うNTTが高市総務大臣を接待する、という構造的な問題が発生している。政官業癒着による、実に不透明で陰湿な決まり方で、日本の恥部である。
注釈も読みごたえたっぷりで、知識になる。
「通えるのに1人暮らしさせるとは、いったいどんなコスト感覚なんだ?と当初は思いましたが、後から考えると、『隔離』が目的なんだと思います。実家の親兄弟から引き離すことで、なるべく相談させないようにして、毎日の長時間労働を(親族の助言で) おかしいと気付かせない、ということでしょう。1年ほどで、どんどん転勤させられますから、落ち着く暇もないんです。会社は、一括で契約している『レオパレス 21』と『アート引越センター』に、めっちゃ払ってるはず。会社のために転勤して、長時間労働で仕事だけの日々を送って、プライベートがゼロになって、精神的に病んで。これじゃ、何にも面白くないな、と」
本書はめちゃくちゃ分厚い鈍器本だが、読んで損はない。しかも、電子書籍より紙の本が安いのだ。(紙の出版を保護するためだという。)
内向型の頂点『内向型の人が豊かになる方法』Kindle自費出版
これまたうさんくさい題名の本なのだが、隠れた名著だった。
中身は、就活氷河期から逃げて、10社以上転職した職業人生の顚末がかたられている。けっこう事細かで、警備員・ビル清掃・農家のアルバイト、システム会社・コインパーキング営業・ネット広告での業務效率化と、順当にレベルアップしていく。
ニートの経験がある人はわかると思いますが、何もする事がない自由時間は単なる生き地獄です。
弱者を装ってあなたに近づいてくる人の中には、単に自分の負の感情にあなたを巻き込もうとしているだけの人もいます。 そういう人はまず、関係値が浅いのにも関わらず重たい話をします。 重病を抱えているとか、悲惨な家庭環境で育った話などを情感たっぷりに語ります。
どん底にいる時に読書で読むべきなのは、成功した昔の偉人の話です。 成功した人の決断や行動を読書で追体験することで、少しずつ自分の脳に成功する方を選ぶ思考回路が出来てきます。 人間は社会性によって発達した種族で、接する人からの影響を受けますが、読書にも同様の効果があります。 無職やフリーターの時に優れた人と接するのは難しいので、読書によって優秀な人のエッセンスを取り込みます。
この方は2010年代、最終的にExcelのVBAやAccessで業務効率化をする仕事で稼ぐようになる。これは特殊なニッチを見つけたという例だ。いまではとうてい考えられないが、しかし参考になるところは多い。
システム関係の会社で、いきなり作業が中断される電話は非合理的です。後に起業から参加した会社では、社員が電話の対応をしなくて良い体制を作りました。 どこの会社でも電話をとらない社員がいると不満が起こるし、双方の時間が拘束されて記録が残らない電話は効率が悪い道具です。
こんな意見もある。
「ハンター・ハンター」がむずかしい… 意外と読解力が必要なマンガ
大学のころ、一年下の男女がつるみ合って息をするように「ハンター×ハンター」の話ばかりしてた。
仕方なく読んだ。
たしかに面白いマンガだと思う。
同時に、珍しく読解力を要求されるマンガでもある。
『イギリスはおいしい』の林望は子供にこう促しているという。【ゲーム時間は制限するけれど、マンガは好きなだけ読んでいい】すこし意外だ。マンガは読解力を必要とするから、読書と同じ効果があると思っていたのかもしれない。
でも最近、ニンテンドーDS・脳トレの川島隆太の本を読んでたら、こう書いてあった(『本を読むだけで脳は若返る』)。【読書に比べてマンガを読んでも、特に脳を活性化させる効果はなかった】
つまり、あんまりマンガには読解力は要求されてないということだろう。
まあ、そりゃそうだ。絵だけ見てても、なんとなく解ってしまうから。
で、その例外として、ハンターハンターは意外と読解力が必要なマンガである。
例えば、蟻篇がそうだ。ハンターハンター内でいちばん面白いと感じた。各場面も四角囲みのト書きで、解りやすく描かれていた。
でも、周囲の感想を聞くと、何をやっているか解らなかったという人が、結構多かったので困った。
なぜなんだろうと考えた。
そこで、読解力・理解力が追いついていないのではないか。と行き着いた。
ただ、この意見は賛否両論あると思う。読解力には先天的な個人差がある、それは研究で明らかになっている。一応、それは申し添えておこう。先の川島の本でも、脳の発達に、後天的な読書が大きく関っていることが分かっていた。
そして現在、ハンターハンターは蟻編以上に読解が要求される、王位継承篇のまっただなかだ。ヒソカとクロロの決戦など、全く皆目見当もつかなかった。まあいいけど。














