たしか石川淳全集(筑摩書房)の『狂風記』の月報に、ドイツ文学者の池内紀が文章を寄せてゐた。友人が石川に大変な影響を受け、文章が石川淳そっくりだったと書かれてゐた。私も最初はそれと似た状態だったから、見る者が見れば、ああこれに影響を受けたんだなとすぐにわかる。
私は高校の頃に井上ひさしに影響を受け、吉里吉里人ほぼそのままの小説を書いた。ほめられたいといふ不純な動機だったが、どのやうに小説を書けばいいのか、これで実感した。そのうち丸谷才一の影響を受けて歴史的かなづかひで物を書きはじめた。はじめたての頃はかなづかひがまるでわからず、日記に「大きひ」「なひ」「驚ひた」などと書いてしまってゐる。大江健三郎の真似もして、――(ダッシュ)で会話を始めたりしてゐた。そしていまは丸谷の影響は抜け、歴史的かなづかひが残った。 当初は「同音の漢字による書きかえ」を見て、「丁寧」は元もと「叮嚀」と書かれてゐたんだなとかんちがひをしてゐた。しかるにある日Twitterを見たら、昔から「丁寧」と書くのが一般的だと知ったのである。精選版日本国語大辞典(以下「日国」)の用例を見てもさうなってゐる(丁寧・叮嚀とは - コトバンク)。フランス語のdébutである「デビュー」もデヴューなどと書いてしまってゐて、どうやらレヴューと混同してゐた。この誤りは小谷野敦がよく指摘してゐる。
かういったかんちがひはひとへに不勉強のせいだ。だから私は、よくしらべもせず、知識もないのに妙に気どった書き方することはやめた。いまでは、歴史的かなづかひや漢字表記がわからないとき・あやふやなときには、日国の用例を見ることにしてゐる。たとへばアイヨクには「愛欲」と「愛慾」のふたつの書き方がある。どちらがいいのかわかりかねるときには歴史をよりどころにすればいい。そこで日国を引くと、9世紀の霊異記に「愛欲」、また1224年の教行信証に「愛欲」の用例があるとわかる。つまり歴史的には「愛欲」といふ表記が一般的であり、わざわざ「愛慾」と書く必要がないのである。
一方で丸谷才一は『完本 日本語のために』(新潮文庫)における湯川豊のインタヴューで妙なことを言ってゐる。
ところが文部省(文科省)の態度はいいかげんでね。文部省に電話をかけて、そのあたりを質問すると、「どうしてもわからないときは新仮名式でいくこと」なんていうんだって。たとえば「頷く」は「つ」に濁点か「す」に濁点かを聞くと、「つ」に濁点が正しいけれども「す」に濁点も悪いとはいえない、みたいなことをいう。だから文部省だってわからないわけですよ、当然のことながら。
なぜ文部省に聞くのか、私にはわからない。日国を見ればすむではないか。歴史的かなづかひにおけるウナズクの表記がどちらなのか、日国の用例を見れば「うなづく」が正しいことはすぐにわかる(もちろん日国でなくとも他の辞書にも載ってゐることだ)。これは私が丸谷から離れていった一因である。
ところでなぜこんな話題を書いたのかといふと、次の小説を目にしたからだ。
門を出て、春の陽光が体に注がれるだらうと云ふ予感は不意に砕けた。ユズコの肩を叩くミナコ先生の手が、彼女の浸つてゐた予感と云ふか、夢想と云ふか、さういふ像を打ち払つたのだつた。
「授業中に関係ない小説を読んでゐたでせう?」と先生。
確かにユズコの机上には電子辞書が置かれてゐて、その劃面には青空文庫の小説が表示されてゐる。
読んで、丸谷の影響だなとすぐに思った。丸谷から離れていった私が、これにも難癖つけようといふのではない。「劃面」と書かれてゐるのを見て、さきに書いた、私の似たかんちがひを思ひ出したのである。
文脈からおそらくこれは「画面」だらう。しかし「劃」の音はカクしかないから、「劃面」ではカクメンになってしまふ。つまり「劃面」は誤りである。おほかた作者は「同音の漢字による書きかえ」でも見て、劃が画に書き換へられてゐるので、画面は元もと劃面だったと思ったのだらう。しかし「畫(画)」と「劃」は別の字だ。画面を昔の漢字表記にもどすのであれば「畫面」と書くほかない。
ほかにも第二回(『ますをらぶり?」第二回──女子高生、実朝を読む。|織沢 実|note)以降でどうしてを「だうして」と書いてあるのを見つけた。これも誤りだが、ふと思ったのは、この作者が丸谷の『輝く日の宮』第0章にある、杉安佐子が書いた短篇小説のやうに、女子高生が歴史的かなづかひで小説を書いたといふ設定にして、意図的に誤った漢字表記やかなづかひを用ゐたのかもしれないといふことである。
ちなみに『輝く日の宮』については大杉重男がおもしろいことを書いてゐます。
しかし、丸谷氏の死後、その晩年に近い時期に書かれた『輝く日の宮』が図書館で追悼コーナーに並べられているのを見て、少し興味を覚えて読んでみた。それはそのヒロインである国文学者杉安佐子が、一九九三年に『春水=秋声的時間』という論文を発表し、翌年に学会賞を取ったという挿話に引っかかったからである。自然主義文学の熱烈な批判者の一人だった丸谷が、なぜその晩年の長編のヒロインに、徳田秋声についての論文を書かせたのか。しかもこの論文は『あらくれ』をテーマにしている。
もちろん現実の日本において一九九三年に杉安佐子という人物が『春水=秋声的時間』という論文を発表した事実はない。しかし実はこの年は別の秋声論が書かれた年でもある。すなわちこの年は私、大杉重男が「『あらくれ』論」で群像新人文学賞を受賞した年なのである。丸谷がそのことを意識していたのではと考えるのは、私の自意識過剰だろうか。「杉」というヒロインの姓は「大杉」に通じてはいないか。
なんだか加藤典洋が大江の小説に書いた批評を、大江が『憂い顔の童子』(講談社)に引用し、加藤がそれを指摘したことを思ひ出した(『文学地図 大江と村上と二十年』朝日選書)。