【加筆訂正】大杉重男のポストモダン

【追記 2023年2月16日】この文章を補足して書き直す必要があると、まへまへから感じてゐた。今回、三島由紀夫の『文章読本(中公文庫)を読んだら適切な補足が浮かんだので、加筆訂正しておく。

まへがき

 大杉重男のブログ記事「現代の東アジアにおいて「思想」は可能か」*1を読んだらかう書いてあった。(傍線筆者)

私はこれ以上調べる気はないが(亀井麻美さんなら分かる?)、「亡」か「滅」かをいちいち気にしなければならないこと自体、日本語における「文字中心主義」の典型的な症候であることは指摘しておきたい。それはヘーゲルの「象形的な文字は、一般に支那文化が註釈的であるのと同じように註釈的な哲学を要求するであろう」(『エンチクロペディー』、デリダ『グラマトロジーについて』からの孫引き)という言葉を傍証する。

 大杉が角川文庫クラシックス版の夏目漱石三四郎』から《滅びるね》と引用したら、小谷野敦が原典では《亡びるね》だと指摘した。それを受けての大杉の文章だ。
 しかしこれを読んで、私は《日本語における「文字中心主義」の典型的な症候であることは指摘しておきたい。》といふ箇所が引っかかった。私はこの部分はまちがひだと思ふ。

大杉の《日本語における「文字中心主義」》とは

 まづ《日本語における「文字中心主義」》について、大杉は上の引用のまへに次のとほりに書いた。

そこで批判される音声中心主義のテーゼの一つとして「書かれたことばは、尋ねられても答えることのできぬ未熟で不具なものであり、「つねにその父の立ち会いを必要としている」(プラトンパイドロス』)」(『グラマトロジーについて』)という言説があるが、これを日本語の中で考えると、日本語の場合むしろ逆に、話された言葉の方が、常にその「父」(書かれた文字言語)の立ち会いを必要としていることが分かる。たとえば、「しそう」という言葉を音声として発しても、それがどのような意味なのかは、頭の中で「思想」「死相」「詞藻」「試走」などといった漢字によって補わなければ確定できない。これは漢語・音読語だけの現象ではない。和語の場合でも、「たずねる」に対する「訪ねる」「尋ねる」「温ねる」のように、その意味は漢字を当てはめることで明確になる。つまり西欧形而上学における音声中心主義に対応するものは、日本において文字中心主義として現象する。

 《話された言葉の方が、常にその「父」(書かれた文字言語)の立ち会いを必要としている》とあるが果してさうだらうか?
 大杉はその例として「しそう」と「たずねる」といふ単語を挙げた。たしかにその単語だけ聞けば、「しそう」は思想・死相・詞藻・試走、「たずねる」は訪ねる・尋ねる・温ねるのうちのどれなのか、わからない。
 しかし、漢字によって補はなくても文脈や状況で意味は限定できる。たとへば「道をおタヅネしたいのですが」と路頭で聞けば、これを「訪ねる」と解釈する人はゐない。
 また、用法がある。たとへば「シソウする」と言ったのであれば、これを「思想する」と解釈する人はゐない。なぜなら文法的に「試走する」のみでしかあり得ないからだ。
 英語の場合を考へてみてもいい。英語にも音声だけでは、どの単語かわからない同音異義語はある。ateとeight、brakeとbreakなど挙げたら切りがない。あるいはstrikeも単語だけでは、野球のストライクかストライキか、どちらの意味かわからない。
 つまり、大杉はここで「文脈」を無視してゐるのだ。

「文字中心主義」言説における三島との共通性

 この大杉の記事と似たことを、三島由紀夫が『文章読本』で書いた。
 たとへば、日本人と比較して外国人は《印刷効果の視覚的な効果》を考へたことがないと書いた(「第二章 文章のさまざま」)

 先ごろある外人のパーティに私は行って、一人の小説家にこう尋ねたことがあります。あなた方は小説を書くときに、印刷効果の視覚的な効果というものを考えたことはありますか。彼ははっきり答えて、絶対にないと申しました。(略)しかし象形文字を持たない国民である彼らは、文章の視覚的効果をまったく考慮しないで綴ることができるのであります。
 われわれにとっては、一度、象形文字を知ってしまった以上、文章において視覚的効果と聴覚的効果とを同時に考えることは、ほとんど習性以上の本能となっております。

 しかし、これは井上ひさしが『自家製 文章読本』で指摘したとほり、外国人も《印刷効果の視覚的な効果》を考へてゐるのは明かだ。
 そもそも三島は《印刷効果の視覚的な効果》が日本と外国とで異る理由を、象形文字といふ一点においてのみ求めてゐる。
 では、たとへば象形文字ではない英語圏の人は「視覚的な効果」を考へてゐないのか。
 いや、ちがふ。たとへば英語でも、文章によっては同じ単語の繰返しをきらひ、しつこいほど同じ意味の別の単語に言ひ換へる(行方昭夫『英語の発想がよくわかる表現50』「5 類語辞典はどう使う?」岩波ジュニア新書)。あるいは強調したい英単語をすべて大文字で書くこともある(たとへばyes→YESなど)。
 これらは果して「視覚的な効果」ではないのか?
 結局「視覚的な効果」のちがひなどといふのは、西洋と日本だからとか言語間の相違とかいふ理由ではなく、書き手の方針によって異るといふ単純な理由でしかないのだ。
 だから、ヘーゲルの「象形的な文字は、一般に支那文化が註釈的であるのと同じように註釈的な哲学を要求するであろう」といふ文は怪しい。そもそもヘーゲルデリダといった言語学者でないポストモダン的な者の言葉で傍證しても、蓋然性があるとはとうてい言へない。

大杉重男の中国語理解

 ところで上のブログ記事で大杉は、中国語について次のとほりに書いた。

中国語は日本語とは異なる系統の言語だが、しかしやはり漢字によって日本語とは別の形で制約されているのではないか。許氏の本を読んで、翻訳を通しての感想だが、その機械的でスローガン的な発想法、対象を何でも二分類か三分類して意味づけて行くその論理構成が、とても漢文的なものに感じた。

 かういった許の本に拠っただけの推論は危険だ。《論理構成が、とても漢文的なものに感じた。》としても、それを中国語全体に敷衍させて考へるのは疑問で、たんに許がさういった書き方をするだけのことだ。
 あるいは次の文にも大杉の偏見、あるいは無知が見受けられる。

方言を正確に写すことを拒絶するこの漢字一元表記は、現代中国人が「中華民族」という新しく作られた人工的な概念の下で中国を国民国家として想像しようとする時の物質的基礎になっているように見える。

 おそらく大杉は方言における音韻しか考へてゐなかった。
 たとへば、中国語では地方(方言)によって第一人称が変るが、きちんとそれぞれの第一人称ごとに漢字が対応してゐる。また、北京語・広東語・閩南語といった方言では、それぞれで否定詞や比較表現が異ってゐる(木村英樹『中国語はじめの一歩〔新版〕』ちくま学芸文庫
 つまり、方言を《正確に写すことを拒絶する》わけではなく、漢字でも方言の特性はあらはれうるのだ。
 どうも大杉は中国語をよく知らないために、かういふ誤りを書いてしまったやうに私には見受けられる。ここにも、ヘーゲルデリダと共通して、専門家でない者のかんちがひがある。これは小谷野敦がブログ記事「「二つの文化」とピンカー」*2で書いたことと同じではないかと私には思へてならない。

ピンカーは『人間の本性を考える』で、生成文法の論文の一節の、難解な術語が多く使われている箇所を引用して、これでは一般読者が敬遠するのも無理はないと言っているが、こと日本語に関していえば、井上ひさし丸谷才一と同様に、ないし私自身も、四十年以上日本語を使ってきた、ないしはそれで本を書いて飯を食ってきたんだからよく分かっている、という勘違いがある。これは英語やイスパニア語ではないだろう、日本という島国と日本語という言語と豊富な言語文化がもたらした日本独自のナショナリズムであり、要するに言語をなめているのである。