友人へ――「プリキュア、やっぱり僕より全然好きじゃん」への返答――未来への方向づけ

 高校時代に男のプリキュア好きとしてからかっていた友人から、思ってもみない言葉がかえってきた。「プリキュア、やっぱり僕より全然好きじゃん」というのだ。
 自分はすこしく困惑した。この三年間、ナントナクでトロプリから見始めた習慣を惰性的につづけているとはいえ、キャラクターが好きというのでもなく――〈推し〉もいないし――、幼さを好む趣味もない。ただ、嗜好や性癖をなるたけ除外した眼で見ようとして――思い上がりだが、それは「公平」という語を意識させるようだった――、くだした判断にすぎなかった。
 この頃はアンパンマンも見る。出先でスマートホンを片手に見ていると、興味津々な後輩が近寄って、見ているのはここで先輩だけですよと微笑された。私もいっしょに笑いながら、でも莫迦にできないんだと言ったら、いえ、莫迦にはしてません、わたしも気が向いたときは見ますといわれた。
 実際、アンパンマンのアニメーションはTV版であれば一話十分で終るし、映画も五十分程度の短い気楽さ。ヘタな大人向けアニメーションを見るよりは(そんなものがあるとして、だが)、しっかり設定のある子供向けアニメを見たほうがおもしろいと考えて、そういえば、と思った。われわれはハリー・ポッター指輪物語やを本格ファンタジーだと認識している。それは正しい。しかし、アンパンマンだって立派なファンタジーではないか?(と自明のものに、いまさら気がつくようにして。)

 なぜ子供向けのアニメーションにこうも惹かれるのか?
 ――子供向けであろうが、大人向けであろうが、私がつねに関心を向けてきた創作物には共通点がある。それは、人間に寄り添う姿勢だ。

 おととし、深夜アニメを見ずにアレコレいうのはよくないと、夜中、布団から這い出すのではないが、いくつか見た。しかし、たいていは小説家・髙樹のぶこの言う、生活体験の乏しさからのような絵空事を感じた。そしてその、なかば義務的な意味の行動が転じて、みずから積極的に乗り出すということにはならなかった。
 以前であれば、森鷗外の「追儺」のとおりに、《小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ》と、小説は人間を描かねばならぬというせまい、古臭いとおもっていた見識に反撥すらしていたのが、いま、人間存在を描いた創作物に惹かれる自分を否定できない。柳美里の本『人生にはやらなくていいことがある』を読んだときの、生きかたの手がかりを得ようとして、ほかのひとの人生を読むのではないかという考えが、ふたたび迫ってくる。
 つねづね、真に人間を描こうとする創作者は、心的外傷や欠落を抱えている(た)と、根拠は少いまま、共通項のようにinferenceすることがある。
 たとえば太宰治は、中高生の頃の周囲の女子の、マンガアニメ由来のアイドル的受容がモデル当人より凌駕しているのがイヤで、敬遠してきた。有名な「人間失格」も、ぴんとこなかった。
 しかし最近になって反省するのは、その巧みさに舌を巻いたからだ。たとえば「ろまん燈籠」も「女生徒」も、ユーモアを持ちながら、人間観察が利いた描写に魅力が大きく、明るくなる。妻だった石原美知子の『回想の太宰治』を読んで、太宰が今でいう陰キャラと変らないことがわかり、むしろ親しみさえ抱いた。太宰は青年の頃から生きることに迷いがあった。それが幾度もの未遂につながった。
 大江健三郎は――これも人間に深くフォーカスした敬愛する作家だが――、大宰を評してこういった。

 たとえば太宰治にしても、太宰の書いた主人公はどれも、現実にそんな人間いたはずはないですよ。あれは太宰治が「太宰治」というフィクションの人物を作って、それを小説に書いていったわけです。かれのどんな小説を例にとってもいいけれども、その最後の方の作品の『人間失格』。あのなかでかれは本当に太宰治的な人物を、フィクションとして完成させている。ところがそれでいて、どこかで律儀に現実の自分という人物と辻褄を合わせている感じがある。短篇『桜桃』なども、自分と主人公の間に直接のつながりを書きつけてやろう、それを書いておかなければならないという、まさに私小説的な律儀さがある。そうやって小説を書き続けていくと、現実の自分と書かれた太宰に、最終的な辻褄を合わせるには、結局、作家は自殺するほかないですよ! そして、案の定、自殺してしまう。これでは自殺するほかない、と思い始めながら、それでもそういう小説を書き続けていく状態は、それは精神的に健康ではないです。誰かが太宰治に、「君が書いている作品と君の実生活は違うんだ」と確実に納得させて、かれを文壇から三年間隔離してやっていれば、太宰は死ぬ必要はなかったと私は思います。その後になって、自分が身辺のモデルからフィクションとして作った人物を、あらためて意識して採用した小説を書けば、中年以降の独特の作品が出来上がっただろうと思います。それは相当なものだったでしょう。

大江健三郎・尾崎真理子『大江健三郎 作家自身を語る』新潮文庫

 私は、大宰の小説の巧みさはおのれという事実の人間性なしには、なしとげられぬものだとおもう。小説中の分身に、最終的に合致させる行動をとってという読みのスルドさ、恐しさ。そしてそれが太宰を破滅させもした。
 私が人間存在を描いた創作物に惹かれるのも、自分に心的な傷があるからだとおもう。そしてその傷を埋める糧として、創作物が機能しているとおもう。
 プリキュアアンパンマンには、そういう狂気的な献身的創作姿勢はない。(なくていい。)しかし作り手は、子供たちがみずからを投影して見るキャラクターに、将来的に、合致する行動をとってほしいと願っているのじゃないか? 同様に、なんであれ、ひとを根本的に勇気づける創作は、ひとに前向きな人生の手がかりを与えるものじゃないだろうか?
 すべてがすべてとはいえないが、私は一部の子供向けアニメに、子供たちに未来の手がかりを示唆する姿勢を感じた。それが私の見たプリキュアであり、アンパンマンだった。
 そしてその頂点に君臨するのが、今のところは高畑勲の「赤毛のアン」と「母をたずねて三千里」だとおもっている。これらのリアリズムの人間のリアリティは、もはやつくれまいとおもわせるすばらしさだった。
 私は特段プリキュアアンパンマンが好きということはなく、批判することさえある。しかしそれでも一目置いてもいる。なぜなら、あらかじめ子供向けだと差別しないで、あるいは先入観で区別していたものが、見た結果、他の作品とおなじ土俵まで引き上げられたから。
 そしてひとり、静謐に励まされもしたから。