大江健三郎の文章の癖を真似したい人たちのために(随時更新)

随時更新

 以前『もし文豪たちが カップ焼きそばの作り方を書いたら』(宝島社)をぺらぺらめくってみたら、夏目漱石とか太宰治とかいろいろあるなかで、大江健三郎も載ってゐた。あのゴツゴツとした大江構文を期待して読んだが、どうみても初期の大江の文章でつまらなかった。
 三田誠広が「芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方」といふWEB連載でかう書いてゐた(【第61回】文体の強度とは何か)。

で、大江さんの文体なのですが、これは当時、大流行していたフランスの実存主義哲学の、ものすごく下手くそな翻訳の真似というか、パロディーみたいな文章なのですね。というのはぼくの偏見なのでしょうが、とにかく読みにくい、もってまわったような、もっとスッキリ書けと言いたくなるような、ものすごい悪文なのです。

でもこの文章を読んでいるうちに、しだいに麻薬のように、文体に足もとをすくわれて、いつの間にか、こういう文章こそが文学なのだという気がしてくるのです。この文章を読んでから、他の書き手の文章を読むと、子ども向きの童話かラノベみたいな感じがして、アホらしくて読めなくなる。それほどの、中毒になるような文体なのです。

文体の強度とでも言えばいいのでしょうか。のぞきこんだ途端に顔面にパンチをくらうような、ガーンというショックを感じます。そのショックが、まさに文学なのですね。ラノベしか読まない若い読者は、シュークリームしか食べない子どもみたいなものです。一度、固くて噛めない、呑み込めないものにも挑戦してみてください。これが文学です。本物の文学は、こんなにも固くて、難解なのです。

でも、気をつけてください。この強度は、クセになります。読み終えたあとで、もうおしまいか、もっと読みたいという気がしてきたら、すでにあなたは中毒になりかかっています。

 ラノベ莫迦にしてゐるやうで不快な人もゐるだらうが、私にも《この強度は、クセになります。読み終えたあとで、もうおしまいか、もっと読みたいという気がしてきたら、すでにあなたは中毒になりかかっています。》といふ気持はよくわかる。真似してみたくなるのである。しかし小谷野敦が『文章読本X』に書いてゐるとほり、真似すれば大江の文体だと看破されてしまふ。

(略)大江の文学が、このよじくれた複雑な文章のゆえに成立しているのも否定できない。だが、大江の文章は、泉鏡花の文章と同じで、人がまねすべきものではない、大江にしか書けず、またまねしても大江のまねにしかならない文章だと言えるだろう。(p.118)

 しかしそれでも大江の文章に熱をあげてゐるといふ人のために、中期以降の大江の文体の癖を列挙していきたい。なほ、かういった癖は岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』に收録されるにあたって、一部修正された。たとへばテレヴィをテレビと直してゐた。

  • 外来語表記
     テレビ→テレヴィ(Televi) ベトナム→ヴィエトナム(Vietnam)
     もっとも有名な癖である。大江の外来語表記は発音に忠実といふよりも、英語表記に忠実である。
  • 会話文
     会話文は「かぎかっこではなく、――ダッシュで始る。段落の書き出しの会話は一字下げてから――で始る。なほ島田雅彦も――で会話を始めるが、段落の書き出しは一字下げてゐない。
  • 引用文
     引用文は『』ではなく、《》に收める。
  • 当て字
    例 助ける→救ける 恐れる→惧れる 大きい→巨󠄀きい 暗い→昏い
  • 同音の漢字による書きかえ
    例 収集→蒐集 退廃→頽廃 離反→離叛 壊滅→潰滅 援護→掩護
  • 異体字
    例 体→躰 駆ける→駈ける 廃村→癈村
  • ルビ
    例 演奏パフォーマンス 暗喩メタファー 案内人ストーカー 
  • 送り仮名
    例 働く→働らく 始まる→始る 集まる→集る 繫がる→繫る

 ちなみに、私が中期以降の大江の小説で、一読してもっともわけがわからなかったのは『「雨の木」を聴く女たち』である。霧の中のやうに茫漠としてゐる。私は三度読んでやうやくだいたい理解した。表題作もよく読んだら時計の価格の伏線があるのに気づいたが、一読しただけでは文章が複雑なので見逃してゐた。