2022年度に読んだ秀作・凡作・駄作大賞

 2022年度(2022/4/1~2023/3/31)に読んだ本のなかで、秀作・凡作・駄作だと思った本を3つづつ挙げる。その本の発表時期が2022年度とはかぎらない。

秀作大賞

1等賞 大岡昇平『現代小説作法』ちくま学術文庫

小説を立体的に捉へた名著
 私は、谷崎から井上ひさしまで、文章読本のたぐひは一通り読んだ。
 では文章についてよくわかったのかといふと、さっぱりわからなかった。谷崎のは比喩がくどく、文章のことなのに、三味線や芝居、釀造酒まで出てくる。三島のは、うはべだけ飾り立てることに主眼をおいて中身がない。丸谷のは、ヨイショ、ドーダと持ち出した名文が、古文さらには祝詞まであって読めない。井上のは、いままでの文章読本を論じるといった体裁。どれも気楽に読めるものではなかった。
 いまでは、それぞれ妥当な批判があるのを知ってゐる。松浦寿輝が「文學界」に書いたとほり、丸谷は《英米系の教養に偏し》てゐる。大江健三郎が書いたとほり、三島はアメリカの葬儀社のやる死体に化粧である。
 要するに、小説家の書いた文章読本は、藝術文に向きすぎるのである。
 では、それらが小説作法として役に立つのかと問ふと、さうとも思へない。もっとも筒井康隆の『創作の極意と掟』講談社文庫)は、筒井の実験的な工夫が垣間見えておもしろかった。しかし、これも中身より技術的な傾向が強すぎるので、小説全体を知るには不向きである。

 しかし、大岡の小説作法にはそれらの欠点がない。より実際的に平明に書かれ、あらゆる点を踏まへて、小説をつぶさに立体的に捉へた、優れた小説作法である。大岡が小説を東西問はず、ひろく丹念に勉強したことを窺はせる。
 展開される小説に対する見地が的を射てゐる。たとへば、最終章の「要約」から挙げると(p.245)

 すべてを知り、すべてを見下す作家の特権的地位というものは現代では失われています。文学における真実の問題もおびやかされています。小説家がいくら社会を描くと威張っても、彼の告げるところは、専門家から見れば、常に疑わしいものです。文章と趣向の必要から来る歪曲は、対象の忠実な「再現」とはいい難い。「彼がこう思った、こう感じた」と書いても「うそをつけ。実はあゝも、感じたろう」といわれれば、それに抗弁する手段は小説家にはないのです。

といふ具合である。現在、社会正義テーマ小説が跋扈するなかで、この指摘は鋭い。
 地味な題名と装丁のために埋もれてしまってゐるのが、実に惜しい。

2等賞 渡部昇一『知的生活の方法』講談社現代新書

知的昂奮の書
 1976年からのベストセラー。いまさら取りあげても「はいはい知ってるよ」との声が飛んできさうで忍びない。また『知的生活の方法』を読んで、知的昂奮を味はふといふのもなんだか妙なやうだ。
 しかし、おもしろかったのである。いはゆる自己啓発書のたぐひだが、いい本だ。
 知的生活をめざす者がないがしろにしがちな習慣について、あれこれ忠告が加へられてゐる。たとへば、知ったかぶりをする子供は進歩がないとか、カントの規則正しい健康的な生活と血圧とか、見切り法とか、知的生活と縁のない配偶者とか。なるほどと感心した。
 しひていへば、後半、精神分析を持ち出してきてオカルトめいたり、ワインとかビールとかこだはったりして、いささか変ではある。また、知的空間のための建築の部分は大規模すぎてあまり現実味がないが、まあ理想を高く持てといふことだらう。

 本書はもっぱら1873年に刊行したP・G・ハマトン『知的生活』によるところが大きい。(後年、渡部は講談社学術文庫から翻訳を出した。)すこし冗漫だが、こちらもおほいに参考になる名著だ。

 ちなみに本書のレヴューを見たら、書きぶりが女性蔑視で不愉快だと書いた人がゐた。しかしそもそも渡部はまへがきで、

 また、私が男であるところから、女性の立場は考慮していない。知的生活には男女の性別のない共通の面があると思うが、また具体的には相当違ってくる面があるのではないだろうか。男である私が、なまじっか女性の立場にもなってみるよりは、男の立場から書いた方が、女性に対してもかえって参考になると思った。知的生活をこころざす女性のために、女性の方が書いたものがあってもよいであろう。要するに私は、自分が実感したり体験したりしなかったことは書かないことにしたのである。

とあらかじめ断ってゐる。まさか、この文章を無視してまで女性蔑視だと主張するのだらうか。

3等賞 佐藤厚志『象の皮膚』新潮社

象の皮膚

象の皮膚

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打倒、村田沙耶香なるか
 2021年刊行の小説。ユーモアを含めた洒脱な文体のリアリズム純文学である。主人公はアトピーを持った女の子。人間関係の雰囲気がひしひしと伝はってきた。学校の空気感、家族の軋轢に生々しさを感じる。私のつね日頃、感じてゐたことをそのままおもしろい小説にしたやうだった。震災文学ではなく、現実の人間関係と心情の機微を書いたリアリズムとして捉へたほうがいいだらう。

 「文學界」の芥川賞受賞エッセーで佐藤は、デビューからこの小説を書き上げるのに3年を要したと書いてゐた。純文学は厳しいので、あと二三作で賞が取れなければ途絶えると編集者に言はれた。そのプレッシャーのなかで、『コンビニ人間』を目標に、打倒村田沙耶香を掲げながら書いた2作目が『象の皮膚』であり、三島賞の候補になったものの、受賞をのがした。しかし、つぎに書き上げた『荒地の家族』は芥川賞を獲った。力量の高さがうかがはれる。小谷野敦週刊読書人の対談で言ってゐたが、次作が楽しみである。(2023年3月27日現在、河北新報朝刊で「常盤団地第三号棟」を連載中。)

kahoku.news

 小説を書くようになったきっかけと言えるのは、大学の授業で大江健三郎さんの『新しい文学のために』を読んだことです。授業では適当にレポートを書いただけでしたが、その後、何か引っかかって読み直したら、これから小説を書こうとする人への呼びかけが自分の中で響きました。
 それから大江さんの小説を読むようになり、さらに中上健次村上龍村上春樹、そして深沢七郎なども読むようになりました。あるとき、古本屋で町田康さんの『夫婦茶碗』と出会って、こんなに面白い小説家がいるんだと驚き、『告白』には衝撃を受けました。

www.shinchosha.co.jp

 大江健三郎から影響を受けたと言ってゐるのにも共感する。
 そのあと、受賞作が載った「文藝春秋」のインタヴューを読んだら、実は佐藤自身もアトピーであり、その体験が『象の皮膚』には含まれてゐると言ってゐて、おどろいた。『象の皮膚』はほとんど私小説なのかもしれない。主人公・凜は仙台で書店員をしてゐるが、佐藤も仙台のジュンク堂で書店員をしてゐる。この小説の凄味はそこに由来するのだと、小谷野の『私小説のすすめ』を読んだばかりの私は思った。

選外(紙幅の都合上だが、秀作)

高橋泰郎『大坂堂島米市場』講談社現代新書

 徳川時代の経済史の片鱗を知るのに、かっこうの入門書。
 少くとも17世紀までには米市場がはじまり、明治まで、いはゆるコメの先物取引や架空取引がつづいた。徳川幕府は、経済のために市場を望ましい状態にしようと、試行錯誤しながら躍起になった。また、人々も米市場の値をすばやく知るために、専門の飛脚の業者や、旗を用ゐた通信、さらには個人で鳩を使ふ人まであらはれた(その後、幕府は鳩などを禁止)。
 と、まあ徳川時代には世界的に見てもめづらしい経済や、それにまつはる工夫があったことがわかる、おもしろい研究である。

石原慎太郎『弟』幻冬舎文庫

 いままで読みもしない癖に豊﨑由美と同じく、傍若無人の逸話(たとへば、芥川賞の選考で、円城塔への受賞が気に食はず、椅子を蹴って退出した噂など)だけで、あるいはイデオロギー的に反対の立場だったので石原を食はずぎらひしてゐた。
 しかし、これを読んでそんな自分を反省した。ベストセラーだが、おもしろかった。
 裕次郎を知らない私でもおもしろい。すごい逸話が出てくる出てくる。津川雅彦を発掘したのが石原だったとは知らなかったし、映画「黒部の太陽」のハッタリは真に迫るものがある。

 もしも、あなたの知らない石原について知ってみたいなら、電子書籍『対談 「政治家・石原慎太郎」を大嫌いな人のための「作家・石原慎太郎」入門』(新潮45eBooklet)がおすすめである。樋口毅宏は《半年以内に、中国と戦争するね。》などと、政治オンチなのかと疑ひかねない変な発言があり、口も悪いが、中森明夫はわりと的を射てゐる。新海誠をほめてゐることや、皇室を無責任だと考へてゐることなど、意外に思った。政治家の石原と小説家の石原が相容れないといふ中森の指摘にも納得する。

東村アキコ「かくかくしかじか」マーガレットコミックス、集英社

 東京工芸大学芸術学部マンガ学科教授の伊藤剛のツイートを見て、おもしろさうだぞと思って読んでみた。自分のいままでの漫画家としてのなりたちを描いた私漫画だ。
 強烈な過去である。そして昔を思ひ出してノスタルジーにふける話ではなく、思ひ出すのがつらいけれど、先生の言葉を背負って前へ前へ進まうとしてゐる作者が浮かびあがってくる。そこもいい。

 

凡作大賞

1等賞 村上春樹『沈黙』集団読書テキスト、全国学図書館協議会

中高生向けの道徳小説
 この小説は「他人の意見に踊らされて集団で行動する連中」といふ存在にたどりつく以上のことがない。学校でいぢめられたりして人間関係のつきあひに不快な思ひをした者なら、だれしも一度は真面目に考へたことがあるのではないだらうか。
 私もそんなことはとうにわかりきってゐたので、『世界の終り~』を読んだ時に感じた退屈さがふたたびよみがへってきた。
 なんとなく筋が予想できてしまふのである。むしろ、大沢さんがなぜ僕にそんな話をしてくれたのかといふことのほうが気になる。似たテーマでは『コンビニ人間』のほうがおもしろかった。

2等賞 麻耶雄嵩『友達以上探偵未満』角川文庫

中途半端な百合
 私は最近、いはゆる百合ってなんなのだらうかと考へてゐるのだが、よくわからない。レズビアンとなにが違ふのか。一方「リコイス・リコイル」なぞを見ると、男にとってホモ・ソーシャルに相当するのが、百合なのではないかとも思ふ。それで早川書房SFマガジン」の百合特集に触発されたであらう、河出文庫の『百合小説コレクションwiz』を買ってみたのだが、なんだかやはりレズビアンっぽかった。あとで気づいたのだが、このアンソロジーにはリコリコの原案者のアサウラもゐた。

 それはともかく、こちらの『友達以上探偵未満』は中途半端である。
 麻耶雄嵩は『本格ミステリ09 二〇〇九年本格短編ベスト・セレクション』講談社ノベルスに載った『貴族探偵』の「加速度円舞曲」がおもしろかったのだが、これはおもしろくない。推理当てなのでネタにひっぱられ、ストーリーはどうでもいいタイプの小説である。
 最終話で上野あおの伊賀ももに対する独占欲が露呈する。悲しい姿は見たくないだの可愛らしい寝顔だの、唐突にさういふ表現が出てくる。百合にしたいのが露骨なのだ。麻耶の傾向からしても、さういふ恐しさを狙った可能性があるが、しかし恐しくもなんともない。

3等賞 佐々木俊尚『現代病「集中できない」を知力に変える読む力 最新スキル大全』東洋経済新報社

私にとっては当り前のことが多かった
 本書の白眉は、散漫力を利用せよと主張する最終章にある。またほかの章で紹介してゐた、RSSリーダーやツイッターのリスト機能、キンドルなどのツールも参考になった。
 しかし、それ以外の内容は集中力についてよりも、情報リテラシーについて多く書いてある。信頼できる情報を得る方法については、私にはわりと自明だった。6、7章は外山滋比古『思考の整理学』にも通じる点がある。
 気になったのだが、著者は無自覚な神秘主義みたいである。コビトさんなどと書いたり、折口信夫を引用したりしてオカルトめいてゐる。それが信頼できる情報か、著者の言ふ方法でまっさきに確めるべきではないか。
 あとドストエフスキーを名著としてゐる点も気になる。さきに挙げた大岡昇平の『現代小説作法』では、ドストエフスキーに対していくつか疑問が呈されてゐて、どれも妥当なものだ。小谷野敦キリスト教的な小説だとしてゐる。
 なほ、p.238の記述《年配の委員たちに選考されるため古くさい価値観の小説が多い芥川賞受賞作の純文学》はおほむね正しい。
 しかし要点だけ絞ればもっと短くなるのに、なんだか水増ししてあるやうな気がする。

選外(紙幅の都合上だが、凡作)

ちほちほ『みやこまちクロニクル コロナ禍・介護編』トーチコミックス、リイド社

身辺雑記に落ちついてしまった
 ちほちほさんの漫画は、受賞した作品が私小説ふうで、様々な人間関係にリアリティがあっていい。いはゆる私漫画である。受賞作は震災のことを書いてゐるが、実直に日常が書いてあって、どれも粒ぞろひだった。
 しかし私小説私漫画の欠点としては、事件を離れて書くネタに困り、平凡な日常を書き出すと、平凡な作品になりがちといふことが挙げられる。小説で冠婚葬祭を書いてもおもしろくないのは、冠婚葬祭がありふれた、他人にとっては退屈なことだからだ。
 これも連載開始後の作品はどうも平坦でいけない。主に自分と両親の話の身辺雑記になり、私漫画の迫力が失せてしまった。
 思ふにこの人は連載ではなく、気ままに描く方がぴったりしてゐるのではないか。

 

駄作大賞

1等賞 奥泉光ゆるキャラの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3』文春文庫

ミステリとしてはどうでもよすぎる
 小谷野敦『このミステリーがひどい!』飛鳥新社に、奥泉光は『吾輩は猫である殺人事件』が頂点だが、桑潟幸一シリーズは肝腎のミステリなんかどうでもいいほど、モデル小説でおもしろかったと書いてあった。なんでも丸谷才一やそのほか大物が、変名で登場するのだといふから気になった。
 そこで、シリーズの最初の巻は品切れだったので、その続刊を買ってみたのだ。
 しかし、このシリーズ3作目はまったくモデル小説ではなかった。北村薫が得意とする日常の謎ならぬ、大学の日常の謎が展開される。
 しかし、まあつまらない。冒頭のベネッセならぬペネッセの部分はふふっと笑ったが、それだけで、全体的に退屈で冗漫。ミステリとしてもどうでもいいやうな謎で、解決まで読んでも、だからなに?と徒労に終るばかり。
 コスプレ大会の場面で、唐突に艦これなどを出してくるのも、さうだ出してやらうといふやうな、なんだか中年がサブカルチャーや若者に媚びる感じがする。
 解説を見たら、翻訳家の鴻巣友季子がこれを『坊つちやん』だと評してゐた。漱石好きの奥泉だし、しつこいほどの渾名はたしかに坊つちやんを意識してゐるのだらう。しかし、決定的な違ひは『坊つちやん』ほど爽快ではないことである。

 ところで、鴻巣も褒め批評一辺倒の人と化してゐ、さらにポストモダンだのケアだのとやってゐて、私はまったく信用してゐない。文藝春秋の『2023年の論点100』の「ノーベル文学賞村上春樹以外の日本作家が受賞する日」を読んだら、

 〔註。スウェーデンアカデミーは〕あくまで作品本位だと。作家の思想発言、時勢時流などは一切関係ないというのが、近年の一貫した回答だ。
 とはいえ、である。わたしとしては、今後はマイナー言語圏の、女性(とトランスジェンダー、ノンバイナリーを含む)作家に、有利な風が吹くことを願っている。

と書いてあって呆れた。作品主義ではなく、作家主義ではないか。
 作家の性別がなんだらうが関係ない。作品がよければ、その作家が男性だらうが女性だらうがトランスジェンダーだらうがノンバイナリーだらうが、ノーベル文学賞が授与される可能性はつねにあるのだ。
 それなのに、作品よりも作家の性質を先行する――文学賞において、作品と関係のない事由が優先されるやうなことがあれば、もうそれは政治的な意味合ひにおいてでしかない。冷戦時代に反ソ連の作家に与へろと言ってゐるやうなものだ。実際は、反ソ連だらうがソ連だらうが関係ないのである。

2等賞 宮崎哲弥『教養としての上級語彙』新潮選書

読んではいけない本
 語彙力本のひとつで、語彙力本自体はあまり信用に置けぬものだが、著者が宮崎哲弥なので読んでみた。ボキャ貧に役に立つらしい。
 著者は子供のころから語彙を高めるための工夫として、ノートにむつかしい単語を書きつけてきたといふ。この本もその過程から生れてきた。
 しかし、どうもその単語が文学的すぎるのである。濫觴はまあまだしも、耳朶だの、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやだのなんて、いつ使ふ機会がおとづれるのだらうか。一生おとづれまい。いくらボキャ貧でも、こんな衒学趣味の「上級語彙」は無用の長物である。
 斟酌とか剴切とか蓋然性とか、あまり使はないけど有用な言葉――もっと本書でいふ「使用語彙」を増したほうがいい。
 だいたい「上級語彙」といふ言ひ方からして、まるで「下級語彙」もあるやうだが、本質的にはどちらも気取った言ひまはしにすぎない。こんな上級語彙を使はずに、わかりやすく物事を伝へることを基本に据ゑてください。

3等賞 千葉雅也『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』星海社新書

あらゐけいいちの絵にだまされてはいけない
 文章が書けない書けないと悩んでゐる哲学関係の4人が集って、wordではなくアウトラインプロセッサを使ったら、アラふしぎ。なんとか書けるやうになりました。これはなぜでせうか。4人で話し合ってみました。
 といふ本である。実際にはアウトラインプロセッサで書いてみても、締切を超過してしまって、まったく駄目なのだが。

 管見ではこの4人は、文章の書き方がよくわかってゐないことに、自分自身でも気がついてゐない。だから、まるで自分が物を書けないのはwordなどのツールやソフトのせいだと言はんばかり。そこに書けない原因があるのだらうと思った。
 1.さすが全員哲学を齧ってゐるといふか、こむづかしい言葉ばかり出てくる。しかし、簡単にわかりやすくいへることを、わざわざ誇張的に比喩を用ゐたりカタカナや熟語を並べたりして、奥深さうに見せかけてゐるとしか思へない。たとへば「有限化」「幼児性」「無能さでフィルタリング」といふ具合だが、それって要するに「限界」「欲」「自分にできることしかしない」ってことだよねと思はずにはゐられません。
 2.抽象的な理論は、具体的な事例があってこそ導き出せる。一方で、抽象的なものから抽象的な理論を導き出すことは、まづ無理だ。だから抽象的なアイデアが降りてくるのを渇望する。いまの哲学はわりと後者である。書けない理由もそこらへんにあるだらう。
 要するに以上の2点が原因だから、物を伝へるのが下手なのかもしれないと私は思った。
 結局この本を読んでいちばん印象に残ったのは、デカルト学者の小泉義之が優秀だといふことである。

 これを読むくらゐなら、野口悠紀雄『「超」文章術』を読んだほうがましである。4章のキツネ文の指摘は一種のポストモダン批判ではないかと思はせるし、アウトラインプロセッサは書きにくいと書いてあって、私は思はず笑ってしまった。哲学者と考へ方の違ひがはっきりしてゐますね。

 

隠れた良作大賞

小田実小田実の受験教育』講談社文庫

昔にも狂気の受験教育はあった
 『何でも見てやろう』の小田実が受験教育に対してつづったものだ。
 1966年に河出書房新社から刊行。古くささうだが、しかし内容は現在の受験教育にも通じるのでおどろく。中学受験や幼稚園受験、受験ママや受験パパのをかしな点をあげつらひ、そしていちばん骨太なのは小田の本領の英語教育を俎上にあげた文章である。

第8講 もっと息子さんを信頼しなさい

 さまざまな手紙をもらった。いくつかに答えてみよう。
 たとえば、私が文学部出身者であるので、卒業のときには、ジャーナリズム以外には、ろくな就職口がなかったと、ことのついでに書いたら、早速、心配症のお母さんから、うちの息子は東大の三年生だが文学部である、東大なので将来の就職は安泰であると思っていたのだが、あなたの一文を読んで心配になった、いまからでもやりなおさせたほうがいいでしょうか、という投書がきた。
 これにはおどろいた。じつは私のそのことばは、大学へいく目的をもう一度考えなおしてみよう、ただ就職のためにだけ大学へいくのはやはりおかしいことではないか、ということを書くついでに述べたことなのだから、おどろくのは当然だろう。大学と教育が結びつくまえに、それほどまでに、大学と就職とが結びついているのかとブゼンとした。
 そのお母さんには、つぎのようにいささか強いことばでいっておこう。
「もう少し、息子さんをご信頼なさい。息子さんはもう大人です。彼の進路は彼が自分で決めるでしょう。あなたのことばをきいて、もう一度やりなおすような人間なら、どこへいっても大成しますまい。あなたの息子さんはそれほどなさけない人物ではよもやないと思います。そんなふうにして、これまであなたは息子さんを導いてこられたのですか。また、これからもそうされるつもりですか。しかし、もう息子さんは子供ではありません。彼は自分のベストをつくすでしょう」

第9講 参考書を自分で編集したまえ

「受験勉強には、参考書を使ったほうがいいでしょうか」
 対象となる受験が大学受験なら、答えは肯定である。教科書だけでは、本来ならそれだけで十分でなければならないはずなのだが、現代の受験の状況では不十分である。〔…〕

「ぼくは高校を受験するのです」
 この場合には、私はむしろ、教科書をよく読むことをすすめる。高校の入試問題の程度は、参考書などという「専門書」を必要としない程度のものである。ということは、大学入試の問題に比べて、少しはましだということになるかもしれない(もっとも、けっして満足すべきものではなく、私は全体として大きな不満をもっている)。〔…〕
 ついでながらいうと、単語を単語集によっておぼえるのはあまり賢明なやり方ではない。さまざまな単語集が出版されているが、そのどれにも通用する欠点は、ともすれば、ただ機械的な丸暗記に終わってしまって、実際に英文を読むときに、その記憶が生きてこないことである。
 賢明な方法は前後のコンテクストのなかで、いわば「生きている単語」をおぼえてゆくことだが、それには、教科書を読み、知らない単語は自分で単語帳をつくって書きとっていっておぼえるという、もっとも正統的な方法が役立つ。〔…〕

「うちの息子は中学校を受けるのよ」
 参考書などいりません。ついでに、中学校の受験など、バカなことはおやめなさい。

「あら、うちのは小学校よ」
 右に同じ。

「参考書は何冊あればよろしいか」
 一冊をボロボロになるまでというのは感心しない。そんな受験生がいるが、彼はその参考書の問題ならたちどころにできるが(つまり、おぼえているのである)、他の問題ならからきしダメ、といったことが多い。〔…〕
 よく見かけるのは、最後まで読み返しもしないで、二十五ページまでは完璧におぼえました、と自慢げにいう受験生である。英文法の例でいうなら、名詞だけは完璧ですよ、というわけである。これがいかにばかげているかは、世のなかには、名詞だけで書かれている英文がないことだけでわかるだろう。〔…〕

「だれの書いた参考書をえらべば合格確実か」
 そんな便利な書物はない。各種の参考書のあいだには、それほどのちがいはない。そんな神通力にみちた書物を捜し求めるかわりに、することはいくらでもある。

 欠点を挙げれば、小田は左翼なので学生闘争に肯定的なのが気になる。

 

まとめ

 今年度は前年度に引きつづいて、夏まではミステリばかりふれてゐた。夏をとほして名探偵コナンをすべて見たり、ドラマ「相棒」を見返したり、ダンガンロンパをやったり、ディケンズのミステリ『荒涼館』を読んだりしてゐた。
 それでミステリが好きになったのかといふとそんなことはなく、秀作大賞を見てもらへばわかるとほりである。

 夏以降は、まづ高畑勲のアニメ「赤毛のアン」と「母をたずねて三千里」に感動した。高畑の世界名作劇場の発見は大きい。アニメ好きを自称する人はおしなべて見るべし。
 そして、電子書籍にふれて感心したことも大きい。電子は安いものが多く、また電子にしかない形態の本も多い。『村上さんのところ』や『石原慎太郎を読んでみた』の完全版は電子にしかないし、さきほど挙げた『対談 「政治家・石原慎太郎」を大嫌いな人のための「作家・石原慎太郎」入門』も電子にしかない。電子書籍のおかげで読書量も格段に上がった。(そして出費も増えた。)

 一年をとほしては、辞書ばかり買ってゐたと思ふ。しかし忠告しておくが、辞書なんかしこたま買ひこんでも役に立たない。引かなければ意味はないので、実質、引くことのない辞書が山のやうに溜まるばかりである。だが持たないのも不便なので、一冊ぐらゐは持っておいた方がいいだらう。

 なほ、ここには挙げなかったが、林達永・李惠成「JKからやり直すシルバープラン」(ヴァルキリーコミックス、キルタイムコミュニケーションといふ漫画の1巻が、意想外におもしろかった。大物政治家の孫娘がバブル崩壊とともに落ちぶれ、タイムリープして過去からやりなほすといふ話だが、あまり異世界ものやタイムリープものをなめてはいけないと思った。(あ、挙げてしまった。)