とんだ+形容詞はまちがひか? 夏木広介『こんな国語辞典は使えない』のインチキ

 けふ図書館へ行って国語辞書の棚を見たら、夏木広介『こんな国語辞典は使えない』洋泉社といふ本が目についた。絶版の小学館日本語新辞典を目当てに、きのふ中央図書館へ行ったら、西山里見『講談社『類語大辞典』の研究 ――辞書がこんなに杜撰でいいかしら』洋泉社といふ刺戟的な題名の本を見つけ、めくってみて、まあどうでもいいやと戾した、それを思ひだしてちょっと読んでみた。
 この本では岩波国語辞典(以下「岩国」)広辞苑など五册の辞書を槍玉にあげてゐた。たとへば「第1章 まずは易しい例から」の冒頭16頁を見ると、岩国における連体詞「とんだ」の説明を糺弾してゐる。

〔連体〕意外で大変な。「これは―ところへ来た」。また、取返しのつかない。「―事をしてくれた」▽飛び離れたの意から。なお「けさは―寒い」のように副詞的に使うこともある。「とんでもない」といつも言いかえられるわけではない。(註。これは岩波国語辞典第六版からの引用。)

「―」の部分が「とんだ」である。これをこのまま「―」で読んでいると見過ごしてしまうのだが、「―」を「とんだ」と読み替えると、最初の二つは良いのだが、最後の用例は、何と「けさはとんだ寒い」となってしまう。これは全く通じない。
 これは次のように理解出来る。
〈なお「けさはとんでもなく寒い」のように副詞的に使うこともある。しかし、「とんだ」が「とんでもない」といつも言い替えられる訳ではない。〉

 同書の説明をこのように理解する事には飛躍があるが、そうとしか解釈が出来ない。それに、ここに唐突に「とんでもない」が出て来る事自体、おかしいのである。
 どうしてこのようになったのかは分からないが、恐らくは、項目「とんでもない」と混同があったのだろう。しかし説明が目茶苦茶である事はどうにも言い逃れが出来ない。

 私は手元の岩国第八版を見てみたが、「けさはとんだ寒い」といふ用例はまだあった。
 本当に「けさはとんだ寒い」はまちがひなのだらうか。
 たしかにコーパスのNINJAL-LWP for TWCトップ ┃ NINJAL-LWP for TWC (NLT)で「とんだ」を調べると、ほとんどが「とんだ勘違い」「とんだ災難」「とんだとばっちり」など〈とんだ+名詞〉のかたちだった。わづかながら〈とんだ+形容詞〉の用例もあったが、いづれも「とんだおめでたい人だ」「とんだ悪いことをした」と名詞句になってゐる。さきの「けさはとんだ寒い」のやうに、直接形容詞にかかった用例はなかった。
 ここまでの情報を見ると、やはり夏木のいふ通りなのだと思ふかもしれない。
 しかしさうではないのである。

kotobank.jp

[2] 〘副〙 思いがけないという気持を込めながら、下の記述を強調することば。たいへんに。ひどく。
※洒落本・遊子方言(1770)更の体「色男どふだ。とんださへないじゃないか」
※洒落本・猫謝羅子(1799)「おかめさんとんださむいねエ」

 精選版日本国語大辞典を引いてみると、ちゃんと「おかめさんとんださむいねエ」と書いてあるではないか。しかも江戸時代の用例である。
 つまり《恐らくは、項目「とんでもない」と混同があったのだろう。しかし説明が目茶苦茶である事はどうにも言い逃れが出来ない。》といふ文はまったくのインチキであり、夏木の指摘はとんだ言ひがかりなのである。
 私はやっぱり、まあどうでもいいやと戾したのだった。

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【追記 2022年2月8日】
 「とんだ」における〈とんだ+形容詞〉の副詞的用法が現代的ではないといふ指摘はその通りである。だから岩国以外のほかの小型辞書にはとんだの副詞的用法が載ってゐない。しかし岩国第七版の序文に書かれてゐる通り、

収録語の原則的範囲について、現今の感じで古くさくなっていても、明治二十年ごろ以降で昭和中期まで普通に使われたものは、採用する方針を再確認した。

といふのが岩国の方針である以上、とんだの副詞的用法を載録する岩国はなにもまちがってゐないのである。

影響うけたてのころ

 たしか石川淳全集筑摩書房の『狂風記』の月報に、ドイツ文学者の池内紀が文章を寄せてゐた。友人が石川に大変な影響を受け、文章が石川淳そっくりだったと書かれてゐた。私も最初はそれと似た状態だったから、見る者が見れば、ああこれに影響を受けたんだなとすぐにわかる。

 私は高校の頃に井上ひさしに影響を受け、吉里吉里人ほぼそのままの小説を書いた。ほめられたいといふ不純な動機だったが、どのやうに小説を書けばいいのか、これで実感した。そのうち丸谷才一の影響を受けて歴史的かなづかひで物を書きはじめた。はじめたての頃はかなづかひがまるでわからず、日記に「大きひ」「なひ」「驚ひた」などと書いてしまってゐる。大江健三郎の真似もして、――ダッシュで会話を始めたりしてゐた。そしていまは丸谷の影響は抜け、歴史的かなづかひが残った。 当初は「同音の漢字による書きかえ」を見て、「丁寧」は元もと「叮嚀」と書かれてゐたんだなとかんちがひをしてゐた。しかるにある日Twitterを見たら、昔から「丁寧」と書くのが一般的だと知ったのである。精選版日本国語大辞典(以下「日国」)の用例を見てもさうなってゐる丁寧・叮嚀とは - コトバンク。フランス語のdébutである「デビュー」もデヴューなどと書いてしまってゐて、どうやらレヴューと混同してゐた。この誤りは小谷野敦がよく指摘してゐる。
 かういったかんちがひはひとへに不勉強のせいだ。だから私は、よくしらべもせず、知識もないのに妙に気どった書き方することはやめた。いまでは、歴史的かなづかひや漢字表記がわからないとき・あやふやなときには、日国の用例を見ることにしてゐる。たとへばアイヨクには「愛欲」と「愛慾」のふたつの書き方がある。どちらがいいのかわかりかねるときには歴史をよりどころにすればいい。そこで日国を引くと、9世紀の霊異記に「愛欲」、また1224年の教行信証に「愛欲」の用例があるとわかる。つまり歴史的には「愛欲」といふ表記が一般的であり、わざわざ「愛慾」と書く必要がないのである。
 一方で丸谷才一は『完本 日本語のために』新潮文庫における湯川豊のインタヴューで妙なことを言ってゐる。

 ところが文部省(文科省)の態度はいいかげんでね。文部省に電話をかけて、そのあたりを質問すると、「どうしてもわからないときは新仮名式でいくこと」なんていうんだって。たとえば「頷く」は「つ」に濁点か「す」に濁点かを聞くと、「つ」に濁点が正しいけれども「す」に濁点も悪いとはいえない、みたいなことをいう。だから文部省だってわからないわけですよ、当然のことながら。

 なぜ文部省に聞くのか、私にはわからない。日国を見ればすむではないか。歴史的かなづかひにおけるウナズクの表記がどちらなのか、日国の用例を見れば「うなづく」が正しいことはすぐにわかる(もちろん日国でなくとも他の辞書にも載ってゐることだ)。これは私が丸谷から離れていった一因である。
 ところでなぜこんな話題を書いたのかといふと、次の小説を目にしたからだ。

note.com

 門を出て、春の陽光が体に注がれるだらうと云ふ予感は不意に砕けた。ユズコの肩を叩くミナコ先生の手が、彼女の浸つてゐた予感と云ふか、夢想と云ふか、さういふ像を打ち払つたのだつた。
「授業中に関係ない小説を読んでゐたでせう?」と先生。
 確かにユズコの机上には電子辞書が置かれてゐて、その劃面には青空文庫の小説が表示されてゐる。

 読んで、丸谷の影響だなとすぐに思った。丸谷から離れていった私が、これにも難癖つけようといふのではない。「劃面」と書かれてゐるのを見て、さきに書いた、私の似たかんちがひを思ひ出したのである。
 文脈からおそらくこれは「画面」だらう。しかし「劃」の音はカクしかないから、「劃面」ではカクメンになってしまふ。つまり「劃面」は誤りである。おほかた作者は「同音の漢字による書きかえ」でも見て、劃が画に書き換へられてゐるので、画面は元もと劃面だったと思ったのだらう。しかし「畫(画)」と「劃」は別の字だ。画面を昔の漢字表記にもどすのであれば「畫面」と書くほかない。
 ほかにも第二回『ますをらぶり?」第二回──女子高生、実朝を読む。|織沢 実|note以降でどうしてを「だうして」と書いてあるのを見つけた。これも誤りだが、ふと思ったのは、この作者が丸谷の『輝く日の宮』第0章にある、杉安佐子が書いた短篇小説のやうに、女子高生が歴史的かなづかひで小説を書いたといふ設定にして、意図的に誤った漢字表記やかなづかひを用ゐたのかもしれないといふことである。

 ちなみに『輝く日の宮』については大杉重男がおもしろいことを書いてゐます。

franzjoseph.blog134.fc2.com

 しかし、丸谷氏の死後、その晩年に近い時期に書かれた『輝く日の宮』が図書館で追悼コーナーに並べられているのを見て、少し興味を覚えて読んでみた。それはそのヒロインである国文学者杉安佐子が、一九九三年に『春水=秋声的時間』という論文を発表し、翌年に学会賞を取ったという挿話に引っかかったからである。自然主義文学の熱烈な批判者の一人だった丸谷が、なぜその晩年の長編のヒロインに、徳田秋声についての論文を書かせたのか。しかもこの論文は『あらくれ』をテーマにしている。
 もちろん現実の日本において一九九三年に杉安佐子という人物が『春水=秋声的時間』という論文を発表した事実はない。しかし実はこの年は別の秋声論が書かれた年でもある。すなわちこの年は私、大杉重男が「『あらくれ』論」で群像新人文学賞を受賞した年なのである。丸谷がそのことを意識していたのではと考えるのは、私の自意識過剰だろうか。「杉」というヒロインの姓は「大杉」に通じてはいないか。

 なんだか加藤典洋が大江の小説に書いた批評を、大江が『憂い顔の童子講談社に引用し、加藤がそれを指摘したことを思ひ出した(『文学地図 大江と村上と二十年』朝日選書)

沖縄・アニメ・見る

 何年前のことだったか忘れてしまったが、いとこがあるアニメを見せてくれた。いまでも目に焼きついてゐる場面がある。ある生徒が階段から落ち、踊り場にころがってゐた傘の先(石突き)に首を突き刺して死んでしまふのである。鋭利な尖端から血がどくどく流れ、その溢れ様に小学生だった私はおぢけついてしまった。私は何も言はずに部屋を出た。気まづくなって、せめてもの笑ひを取らうとまるで吹雪にあらがってでもゐるかのやうに、ひらいた折りたたみ傘を前に差し向けて戾っていった。部屋から笑ひがもれた。
 結局そのアニメは見ずじまひにゐる。そのことを度たび思ひ出す機会があって、あれはなんだったのだらうと気になってゐた。
 また別のシーンが思ひ出された。学校の屋上で下方をまっすぐに俯瞰してゐる、眼帯をつけたひとりの少女。「眼帯 アニメ」でしらべると出てくるのは中二病でも恋がしたいで、私の印象とはちがふやうだった。
 実のところ、これは「Another」のことである。原作は綾辻行人の小説で、私は中学時代に東川篤哉東野圭吾をたくさん読んで推理小説から離れていったから、まったく頭に浮かばなかった。ベネッセだかどこかの読書特集の小册子に、繰返し読んでも謎は深まるばかりだと、ある女優がAnotherを挙げて言ってゐたことが書いてあった。ほかにはWikipediaに書いてある、綾辻行人ファミコンをすすめられたのがきっかけで宮部みゆきはゲームに夢中になった、といふ情報しか知らなかった。
 制作会社はP.A.WORKSである。私はこの会社の作品を見るのは白い砂のアクアトープが初めてだと思ってゐたのだが、さうではなかった。しらべるとウマ娘P.A.WORKSの制作である。

 白い砂のアクアトープは舞台が沖縄である。私はアニメにうといので知らなかったのだが、どうやら沖縄が舞台のアニメは一定してあるものらしい。
 同じP.A.WORKSによる、2018年に放送された「色づく世界の明日から」がTVerで配信されてゐたので第一話を見てみたら、アクアトープとおんなじカンジなのにはおどろいた。
 白い砂のアクアトープの第一話は、女の子がアイドルをやめて衝動的に沖縄に行ってしまひ、見知らぬ土地の水族館で水槽から魚群が飛び出すまぼろしを見、そこでアルバイトを始めることになるといふ筋である。
 一方、色づく世界の明日からの第一話は、色盲の女の子が望んでもゐないのに魔法使ひの祖母によって六十年前の2018年へと送られてしまひ、なんやかやあってなくしものを探して男の子を追ふと、ベンチに坐ったその子の描いてゐる絵が飛び出すといふ筋である。
 つまり、どちらも第一話に〈見知らぬ土地に行く〉と〈まぼろしを見る〉といふ、ふたつの要素があるのである。なにかあるなと思ってしらべたところ、監督とシリーズ構成を担当する人が両方の作品において同じことがわかった。キャラクター造形も同じなので展開もまったく同じなのではないかと思ったが、さすがにそれはちがふやうである。
 今年はもうひとつ沖縄が舞台のアニメがある。短篇アニメのでーじミーツガールである。こちらもTVerにあるので見てみたら、沖縄方言をしゃべる女の子の声に聴きおぼえがあった。もしやと思ってしらべたところ、その声優がアクアトープにも出てゐたことがわかって納得した。沖縄方言が得意なために沖縄が舞台だとよく起用される声優なのかもしれない。

 ところで沖縄ではTVをつけてもアニメをあまり見ることができない。 
 たとへば今年の七月に放送されたアニメの一覧をしらべると(全国テレビアニメ番組表 - 九州・沖縄|アニメテラス)、深夜に週あたり7作品流れてゐたことがわかる(そのうちのひとつは名探偵コナン。米国でもコナンは深夜に流れてゐるさうである)。深夜以外の時間帯だとアンパンマンプリキュアドラえもんといった子供向けのものが9作品流れてゐた。つまり沖縄では一週間に16作品しか流れなかったのである。

dic.nicovideo.jp

 これは少い。と言っても私はアニメを大して見ないし、深夜に起きてまで見るつもりはないから別に困らない。しかしさうでない人はゐて、高校の修学旅行で沖縄へ行った際、一緒の部屋に泊った松木(假名)はアニメが見られないのでベッドでのたうちまはってゐた。たまにセルアニメのお米のCMが流れるとそれをぢっと眺めてお米お米などと呟いてゐたが、はたして冗談なのかわからない。TVで見られないのならインターネットで見ればよささうなものだが、あいにく宿舍のインターネット回線は混雑してゐて、なめくぢ並の速度だった。暇つぶしにうってつけなトランプカードさへ誰も持ってこなかったので、我われはTVで日テレの世界まる見え!みたいな番組を見てしだいに飽きていった。洗剤泡で家中を満す実験などをしてゐた。
 この松木は化学の実験でもずっとアニメの話をしてゐて、私は当時アニメをほぼ見てゐなかったので、知ったかぶりをして話を合せてゐた。学戦都市アスタリスクを繰返し視聴してせりふを覚えたと言ひ、私も子供の頃はドラえもんの第一話「ゆめの町ノビタランド」のせりふをまるまる覚えたことがあるが、さすがにいまではそんな無茶な真似はしない。その後かれが四畳半神話大系を見た時は、せりふが長過ぎるからおぼえられないぢゃないかなどと言ってゐた。私の知ったかぶりを見抜いたのか、かれは私が見たことのある四畳半神話大系の話ばかり私に振った。

ニコニコで曲を聞く

 今年の夏だったか、ニコニコ動画で金魚光線といふアカウントの「とべない深海魚」を聞いてみたところ、感心し繰返し聞いてしまったことがある。これは「クーネルエンゲイザー」をリスペクトした曲ではないかと私は思ってゐた。しかし、先日ほかにもリスペクト先があるのではないかと気がついた。
 それは「あさやけもゆうやけもないんだ」である。聴き比べてみてほしいのだが、曲調が似てゐる。
 だが実は「あさやけもゆうやけもないんだ」はまた別の曲のリスペクトなのである。それは「イワシがつちからはえてくるんだ」で、私は深海魚よりも先に知ってゐた。きっかけは「スネ夫がつちからじまんばなしをするときにながれてくるんだ」といふ音MADを見た時である。
 とここまで書いてみたら、ちょっとリスペクトが多くてよくわからなくなってきた。私はかういふ曲にうといので何が何のリスペクトと断定できるほどの自信がない。

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【加筆訂正】大杉重男のポストモダン

【追記 2023年2月16日】この文章を補足して書き直す必要があると、まへまへから感じてゐた。今回、三島由紀夫の『文章読本(中公文庫)を読んだら適切な補足が浮かんだので、加筆訂正しておく。

まへがき

 大杉重男のブログ記事「現代の東アジアにおいて「思想」は可能か」*1を読んだらかう書いてあった。(傍線筆者)

私はこれ以上調べる気はないが(亀井麻美さんなら分かる?)、「亡」か「滅」かをいちいち気にしなければならないこと自体、日本語における「文字中心主義」の典型的な症候であることは指摘しておきたい。それはヘーゲルの「象形的な文字は、一般に支那文化が註釈的であるのと同じように註釈的な哲学を要求するであろう」(『エンチクロペディー』、デリダ『グラマトロジーについて』からの孫引き)という言葉を傍証する。

 大杉が角川文庫クラシックス版の夏目漱石三四郎』から《滅びるね》と引用したら、小谷野敦が原典では《亡びるね》だと指摘した。それを受けての大杉の文章だ。
 しかしこれを読んで、私は《日本語における「文字中心主義」の典型的な症候であることは指摘しておきたい。》といふ箇所が引っかかった。私はこの部分はまちがひだと思ふ。

大杉の《日本語における「文字中心主義」》とは

 まづ《日本語における「文字中心主義」》について、大杉は上の引用のまへに次のとほりに書いた。

そこで批判される音声中心主義のテーゼの一つとして「書かれたことばは、尋ねられても答えることのできぬ未熟で不具なものであり、「つねにその父の立ち会いを必要としている」(プラトンパイドロス』)」(『グラマトロジーについて』)という言説があるが、これを日本語の中で考えると、日本語の場合むしろ逆に、話された言葉の方が、常にその「父」(書かれた文字言語)の立ち会いを必要としていることが分かる。たとえば、「しそう」という言葉を音声として発しても、それがどのような意味なのかは、頭の中で「思想」「死相」「詞藻」「試走」などといった漢字によって補わなければ確定できない。これは漢語・音読語だけの現象ではない。和語の場合でも、「たずねる」に対する「訪ねる」「尋ねる」「温ねる」のように、その意味は漢字を当てはめることで明確になる。つまり西欧形而上学における音声中心主義に対応するものは、日本において文字中心主義として現象する。

 《話された言葉の方が、常にその「父」(書かれた文字言語)の立ち会いを必要としている》とあるが果してさうだらうか?
 大杉はその例として「しそう」と「たずねる」といふ単語を挙げた。たしかにその単語だけ聞けば、「しそう」は思想・死相・詞藻・試走、「たずねる」は訪ねる・尋ねる・温ねるのうちのどれなのか、わからない。
 しかし、漢字によって補はなくても文脈や状況で意味は限定できる。たとへば「道をおタヅネしたいのですが」と路頭で聞けば、これを「訪ねる」と解釈する人はゐない。
 また、用法がある。たとへば「シソウする」と言ったのであれば、これを「思想する」と解釈する人はゐない。なぜなら文法的に「試走する」のみでしかあり得ないからだ。
 英語の場合を考へてみてもいい。英語にも音声だけでは、どの単語かわからない同音異義語はある。ateとeight、brakeとbreakなど挙げたら切りがない。あるいはstrikeも単語だけでは、野球のストライクかストライキか、どちらの意味かわからない。
 つまり、大杉はここで「文脈」を無視してゐるのだ。

「文字中心主義」言説における三島との共通性

 この大杉の記事と似たことを、三島由紀夫が『文章読本』で書いた。
 たとへば、日本人と比較して外国人は《印刷効果の視覚的な効果》を考へたことがないと書いた(「第二章 文章のさまざま」)

 先ごろある外人のパーティに私は行って、一人の小説家にこう尋ねたことがあります。あなた方は小説を書くときに、印刷効果の視覚的な効果というものを考えたことはありますか。彼ははっきり答えて、絶対にないと申しました。(略)しかし象形文字を持たない国民である彼らは、文章の視覚的効果をまったく考慮しないで綴ることができるのであります。
 われわれにとっては、一度、象形文字を知ってしまった以上、文章において視覚的効果と聴覚的効果とを同時に考えることは、ほとんど習性以上の本能となっております。

 しかし、これは井上ひさしが『自家製 文章読本』で指摘したとほり、外国人も《印刷効果の視覚的な効果》を考へてゐるのは明かだ。
 そもそも三島は《印刷効果の視覚的な効果》が日本と外国とで異る理由を、象形文字といふ一点においてのみ求めてゐる。
 では、たとへば象形文字ではない英語圏の人は「視覚的な効果」を考へてゐないのか。
 いや、ちがふ。たとへば英語でも、文章によっては同じ単語の繰返しをきらひ、しつこいほど同じ意味の別の単語に言ひ換へる(行方昭夫『英語の発想がよくわかる表現50』「5 類語辞典はどう使う?」岩波ジュニア新書)。あるいは強調したい英単語をすべて大文字で書くこともある(たとへばyes→YESなど)。
 これらは果して「視覚的な効果」ではないのか?
 結局「視覚的な効果」のちがひなどといふのは、西洋と日本だからとか言語間の相違とかいふ理由ではなく、書き手の方針によって異るといふ単純な理由でしかないのだ。
 だから、ヘーゲルの「象形的な文字は、一般に支那文化が註釈的であるのと同じように註釈的な哲学を要求するであろう」といふ文は怪しい。そもそもヘーゲルデリダといった言語学者でないポストモダン的な者の言葉で傍證しても、蓋然性があるとはとうてい言へない。

大杉重男の中国語理解

 ところで上のブログ記事で大杉は、中国語について次のとほりに書いた。

中国語は日本語とは異なる系統の言語だが、しかしやはり漢字によって日本語とは別の形で制約されているのではないか。許氏の本を読んで、翻訳を通しての感想だが、その機械的でスローガン的な発想法、対象を何でも二分類か三分類して意味づけて行くその論理構成が、とても漢文的なものに感じた。

 かういった許の本に拠っただけの推論は危険だ。《論理構成が、とても漢文的なものに感じた。》としても、それを中国語全体に敷衍させて考へるのは疑問で、たんに許がさういった書き方をするだけのことだ。
 あるいは次の文にも大杉の偏見、あるいは無知が見受けられる。

方言を正確に写すことを拒絶するこの漢字一元表記は、現代中国人が「中華民族」という新しく作られた人工的な概念の下で中国を国民国家として想像しようとする時の物質的基礎になっているように見える。

 おそらく大杉は方言における音韻しか考へてゐなかった。
 たとへば、中国語では地方(方言)によって第一人称が変るが、きちんとそれぞれの第一人称ごとに漢字が対応してゐる。また、北京語・広東語・閩南語といった方言では、それぞれで否定詞や比較表現が異ってゐる(木村英樹『中国語はじめの一歩〔新版〕』ちくま学芸文庫
 つまり、方言を《正確に写すことを拒絶する》わけではなく、漢字でも方言の特性はあらはれうるのだ。
 どうも大杉は中国語をよく知らないために、かういふ誤りを書いてしまったやうに私には見受けられる。ここにも、ヘーゲルデリダと共通して、専門家でない者のかんちがひがある。これは小谷野敦がブログ記事「「二つの文化」とピンカー」*2で書いたことと同じではないかと私には思へてならない。

ピンカーは『人間の本性を考える』で、生成文法の論文の一節の、難解な術語が多く使われている箇所を引用して、これでは一般読者が敬遠するのも無理はないと言っているが、こと日本語に関していえば、井上ひさし丸谷才一と同様に、ないし私自身も、四十年以上日本語を使ってきた、ないしはそれで本を書いて飯を食ってきたんだからよく分かっている、という勘違いがある。これは英語やイスパニア語ではないだろう、日本という島国と日本語という言語と豊富な言語文化がもたらした日本独自のナショナリズムであり、要するに言語をなめているのである。

アニメ平家物語

 古川日出男の『平家物語 犬王の巻』河出書房新社湯浅政明がアニメ映画化すると発表したのは2019年のことだ。先日PVができて、2022年に公開されることになった。
 しかし先程の報を聞いておどろいた。これとは別のアニメ版「平家物語」をフジテレビで放送するといふのだ。これは池澤夏樹全集の『現代語訳平家物語』が原作で、翻訳は古川日出男、出版社は河出書房新社、アニメの制作会社はサイエンスSARU、放送期間は2022年である。
 なんと湯浅の映画となにからなにまで同じなのだ。なにかあるとすぐに気づいた。湯浅政明は2020年にサイエンスSARUの社長を辞めたが、このアニメにも関係してゐるのではないか。

 そのあとFODでアニメ版の第1話を見た。琵琶法師の、未来予知する娘といふ、原作にはない要素を入れてゐる。この娘が琵琶をひくのだが、幼いのに演奏がうますぎるといふ違和感がある。途中途中に語りが入る場面では、語る人物は成長したその娘ではないかと思った。
 第1話なのでまだなんとも言へないが、私は最初から冷めた目線で見てゐた。古川日出男について心配だといふ要因もあり、特に期待するわけではなかった。

【追記 2022年2月28日】
 『平家物語 犬王の巻』が文庫に入ったので見てきたが、相変らずの誇張文体で、さらに冒頭から物語を語ると宣言してゐてわざとらしい文章だった。


www.youtube.com

jun-jun1965.hatenablog.com

 山田尚子監督のインタヴューも見たがあまり感心しなかった。
 私は小谷野敦の「「平家物語」と勧善懲悪」と同じ意見なので、『平家物語』を評価してゐないし、古典だからといってすべての古典がよいとも思ってゐない。

【追記 2023年2月16日】
 書き忘れてゐたので補足しておく。
 湯浅の映画「犬王」を昨年見た。端的に言ふと、まあふつうのパンクロック映画だと思った。私のレヴューを引用する。

手塚治虫どろろとそっくり
 冒頭の、盲人から見た世界の描写はよかった。お父さんの霊が小さくなってハスキーボイスで語りかける所はマインド・ゲームを思ひ出した。
 しかし橋の上やたもとでパンクロックをがんがんに弾いて歌ふ所は、うーん、耳にがんがん響くだけであまりおもしろくない。天皇に見せる所になってやうやくおもしろくなる。さらに父親が力を得るために息子を呪ひの犠牲にして、犬王が手足を取り戻すあたりは、手塚治虫どろろとほとんど同じである。
 古川日出男の原作も通俗的な感じで、平家の学者の松尾葦江が《読後感を一言でいうとー小説を読んだのではなく「絵のないマンガ」本を読んだ気がする、でしょうか。この作家の他作品を読んだことがないので、こういう文体、構成が本作品限定なのかどうかが分からないのですが、粗筋と擬音語しかない、マンガの吹き出しを拾って読んだような後味です。》《商売柄、表現の粗っぽさと、古典語の誤用とが気になって爽快に読めない(例えば五百はイホ、魚はイヲで中世では通音かどうか、「まるっきり」という語は通常否定表現に続くetc.)のは私だけの事情だとしても、能や平家語りのたたずまいとはあまりに遠すぎる。》と書いてゐて、やはり古川は駄目だと思った。
https://mamedlit.hatenablog.com/entry/2022/06/19/141844
 湯浅政明のアニメとしても、マインド・ゲームを超えられてゐない。

booklog.jp