フィクションのリアリティ

note.com

 私は上の文章に同意する。一方で反対意見もある。

yarukimedesu.hatenablog.com

宇宙人が出てくるマンガにリアリティって言われたって…(困惑)。

 フィクションにもある程度リアリティは必要である。たとへば異星人など現実にとって特異なものが出てきたら、リアリティがないのかといふと違ふ。異星人は読者が許容する設定であり、リアリティは土台であって、土台の上でその設定を生かすのである。これをタコピーにあてはめると、土台は虐待やいぢめであって、設定はタコピーである。

思うに、マンガのリアリティってのは、「こういうことも現実にあるかもしれない」と思わせることで、実際に起きた事例に合致するか?ということではないのじゃないか?と思います。

極端に思えても、「こういうことが実際にもあるかもしれない」と思えれば、その作品はリアリティがあると、私は考えます。

 私がタコピーの原罪のストーリーのリアリティに対して薄く感じる理由は、上の記事で指摘してゐるやうにいろいろつじつまの合はない点があるからで、現実にあると思はすと言っても私からすればリアルに描いてゐるやうで全然うそくさいので、こういうことが実際にもあるかもしれないとも、この世のどこかで起きているかもしれないとも思へない。土台が許容できないのである。虐待とは無縁な他人が、リアリティがあると勘違ひしてゐるとしか思へない。
 もちろんラヴコメやバトルものなどある程度うそくさくてもいい作品はあるが、虐待といふ深刻なテーマを扱ふ以上、あくまで整合性の不備がないやうに丁寧に描くべきだらう。米澤穂信『満願』や西加奈子サラバ!』に対する直木賞選評などを見ればわかるのだが、東野圭吾宮部みゆきとちがって常に作品の整合性を気にしてゐて、その態度は正しいと私は思ふ。

冒頭の記事のブコメでもありましたが、第1話の一番衝撃的なシーンの、主人公の家の散らかった感じとか、テーブルの上の様子は、めちゃくちゃリアリティがありました。

 それは作画のリアリティであって、ストーリーのリアリティではない。

 ここで私が思ひ出したのは、谷崎賞を受賞した青来有一『爆心』に対する筒井康隆谷崎賞選評である。小谷野敦のブログから引用する。

jun-jun1965.hatenablog.com

 『中央公論』に載っている谷崎賞の選評で、筒井康隆氏が、原爆を描けば新聞などでとりあげられやすいが、賞を与えるべきなのは、文学的新しさを持ったものであり、この作品はそうは思えないし、今までの作品数からいって、果たして谷崎賞にふさわしいのだろうか、と書いている。

 これも同じことで、虐待を書けば不備があっても必ず評価されてしまふといふのは、私からすると嫌な感じだ。作者のタイザン5さんには次回作に期待いたします。