紙の辞書は死んだ?

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 四年前の飯間浩明トークイベントを読んでゐたら、飯間はかう言ってゐた。

ちょうどその時期に、新宿で「語彙・辞書研究会」という研究者の集まりがあったんです。そこで、「紙の辞書に未来はあるか」というテーマで、研究者たちが討論をしていました。

その話を聞いていますと、「紙の辞書にはいいところがあるので、なくならないでしょう」「紙の辞書はこれからも使われるでしょう」という話になっていたんですね。「紙の辞書万歳!」みたいな話になっていたんです(笑)。

(会場笑)

「あれ、ちょっと待てよ」と。私は辞書を作っている人間として非常に違和感を覚えまして。私自身が発言をさせていただく機会があったもんですから、ひと言述べたわけです。

「みなさん、ここに集まっている研究者のみなさん方は、紙の辞書をお使いでしょう。しかし、この研究会の外を一歩出ますと……」と言ってから、発言席の後方にあった窓のブラインドを、よく刑事がやるようにしてパシッと開けました。

そして「あの表を通っている人たちは、紙の辞書を使っていません。紙の辞書は死んだんです」と言ったら、会場の研究者たちから、クスクスと笑い声が漏れたんですね。

つまり、「冗談だろ」というような受け取り方だったんです。「紙の辞書は死にました?」「飯間さん、おもしろいこと言うな(笑)」という感じでした。

それで私は「違うのに!」と。「本当に紙の辞書は使われてないんですから!」と心の中で叫んだんですが、どうもその場の研究者の方々はそのことが実感としておわかりにならなかった。

 表を通ってゐる人たちが紙の辞書を使ってゐないと、なぜ紙の辞書は死んだことになるのか論理がわからない。だいいち表を通ってゐる人たちが本当に紙の辞書を使ってゐないとは断定できないし、では昔だったら表を通ってゐた人たちは紙の辞書を使ってゐるのかといふと今も昔もあまり変らない気がする。
 だから《「冗談だろ」というような受け取り方だったんです。「紙の辞書は死にました?」「飯間さん、おもしろいこと言うな(笑)」という感じでした。》といふ聞き手の反応は、飯間の言ってゐる事実に対して向けられたものではなく、飯間の奇妙な比喩と論理に向けられたものだらう。
 まあ死んだといふ比喩は誇張だが、インターネットで容易に調べられるやうになってから辞書の需要が減ってゐることはたしかである。

むしろエーミール側に立ってゐた

 中学の国語教科書で定番の小説に、ヘッセの少年の日の思ひ出があって、やままゆがを粉々にされたエーミールが、さうか、さうか、つまり君はそんなやつなんだなと言ふ。このせりふが中学生のあひだで飛ぶやうにはやった。どうやら癪に障る厭味ったらしいせりふとして強烈に印象づけられるやうである。
 しかし私はむしろエーミールに共感するのだ。自身の大切なものをめちゃめちゃにされて気を悪くしないほうがどうかしてゐる。
 どうもこの手の厭味が好きな人間といふのはゐて、高校の頃、模擬試験に陶藝家の弟子が復讐のために師匠に歯向って厭味を言ふといふ小説が出題され、午後の美術の授業で、同級生のWからあの小説が読みたい、知ってるかと聞かれたことがあった。知らないと答へたが、ああいふのが好きな人は半沢直樹も好きなのだらうなと思ふ。
 国語教科書からはやった言葉はほかにもあったと思ふが、記憶にない。安岡章太郎のサアカスの馬が授業の題目になった時は、お調子者のKが「まあいいや、どうだって」をはやらせるかなどと言ってゐたが、別にはやらなかった。

漢字でむかつくふたり

 評判がいいやうなので新潮日本語漢字辞典を購入したきのふ、思ひ出したことがあった。
 以前にくらべ私は漢字に大きな関心を払ってゐない。他方、友人のKは「釁キン/ちぬる」「靉靆アイタイ」といった通用しない、やたらむつかしい漢字を使ひたがる。これは小谷野敦が指摘したやうに、性質として小林秀雄吉本隆明のこけおどしと同様だから、ハッタリだと忠告したが恰好いいからと言って譲らなかった。さういった読めない漢字をわざわざ『字通』平凡社から探してくるのである。趣向がわるいと思ふ。
 その字通は高校の頃、どの漢字辞典がいいのか若手国語教師に相談して購入したといふ。私も白川静の『常用字解[第二版]平凡社を持ってゐるが、白川の字源説には問題があり、その教師は知らずにインターネットで調べたまま辞書をすすめたとKは言ってゐた。しかしKは字通を読んでも何をいってるのかちんぷんかんぷんだったさうである。
 いづれ漢検一級を取りたいと胸を張ってゐたので、高島俊男漢検批判(『お言葉ですが…〈別巻3〉漢字検定のアホらしさ』連合出版を持ちだして漢検の問題は駄目だとさとすと、いやさうなんだけど受けないのは悔しいぢゃないかと返した。
 しかしあくまで旧字を除いた範囲にだけ興味があるのがKである。だからかれは旧字にうとい。高校の頃、「凾」は函の旧字だと教へてき、ふうんと思ったが、辞書で調べると別体だとわかったので指摘したら、おれは旧字に興味がないんだよと居直った。その時はむかついたものである。
 また「朝夕」を私があさゆふと読んだら、友人Mにチョウセキだろと指摘され、それにKが同意したことがあった。この時も辞書で調べたらチョウセキのほかにチョウジャク、あさゆふといふ読みがあったのでいやな気持になった。
 それいらい居直られると面倒なのでKには漢字の話題で慎重に接しようと思って、しかしひさびさに会ふとたのしい会話に身を任せてそれを忘れてゐる。

読んでもよくわからない本のはなし

 世間的には、あるいはまはりの人には評価が高いけれど、私にはわからない本といふのはある。小谷野敦小池昌代と対談して『この名作がわからない』(二見書房)を出した。全体的に小谷野のわからない小説をわかる小池が説明する体裁でおもしろかったのだが、立場を逆にして、小池のわからない小説を小谷野が説明することがあってもいいと思った。
 私がいままで読んでわからなかった小説には、『星の王子さま』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『恐るべき子供たち』などがある。

 『星の王子さま』の原題はフランス語でLe Petit Prince、すなはち「小さな王子」だが、内藤濯が岩波から「星の王子さま」の題で出し、そのまま定着した。翻訳出版権が切れたあとは新訳がどっさり出て、みすず書房や光文社新訳文庫などでは「小さな王子さま」と訳し、池澤夏樹集英社文庫から新訳を出し(あとで『知の仕事術』集英社インターナショナル新書)に、フランス語はしゃべれないが辞書を片手に翻訳したと書いた)、斎藤美奈子は各訳を比較した。つまりそれなりに盛りあがったのである。それより以前のことだが、北杜夫は「私の一冊「星の王子さま」」でべたぼめしてゐる新潮文庫『見知らぬ国へ』所收)
 私は中学生の頃に新潮文庫の河野万里子訳『星の王子さま』を買った。ほかの版元の文庫の、サン=テグジュペリによる挿絵は白黒なのだが、新潮文庫はフルカラーだったから買った。けちなのかなんなのか。しかし翻訳がよくないせいか、どうも終りにある毒蛇との会話が不明瞭で、なにを話してゐるのか文脈がよくわからないのである。さらにストーリーがおもしろいわけでもなく、かといって感動もしないのだ。ほめる人が多い割にはよくわからないと言ふしかない。
 宮﨑駿はサン=テグジュペリを評価してゐて、新潮文庫の『人間の土地』に「空のいけにえ」といふ文章を寄せてゐる。もっともこれはたんにかれが飛行機好きといふことなのかもしれないが、私は『星の王子さま』を読んでも意味不明なばかりでサン=テグジュペリがなにかすごい作家だとは思はなかった。だから丸谷才一が『文学全集を立ちあげる』(文春文庫)で、そんなにえらいの?と言ってゐて溜飲が下がった思ひがしたものだ。

【追記 2022年4月29日】
 かういふ本があるのを小谷野敦のツイートで知った。

 どうやら安冨歩のこの本は読んで困るさうだ。しかしこれを知ってもますます『星の王子さま』が子供向けではないと痛感するばかりで、第一子供に解るはずがないし、やはり大した小説ではないといふ評価を強くした。

jun-jun1965.hatenablog.com

世間に通用してゐる旧字

 中学のころ私は井上ひさしの『東京セブンローズ』を読んで鹽だの臺所だのまるでちんぷんかんぷんだった。米原万里は書評で旧字がすらすら頭に入ると書いてゐたが、鹽を見て塩だと認知できる人は少いだらう。旧字は世間に浸透してゐない。
 しかしある程度は世間でも認知されてゐる。常用漢字表を見ながら、世間に認知されてゐさうな旧字を挙げてみたい。なほ旧字と新字のあひだで大きな異同がない漢字は取りあげない。(たとへば惡と悪、突と突など。)

 以上が、旧字でも割合よく見かける漢字ではなからうか。
 姓名であれば齊のほかに、旧字の澤や櫻などが使はれてゐるが、私が思ふに澤が沢の旧字だと認知してゐる人は少い。
 龍の認知度も高いがこれは謎である。芥川龍之介坂本龍馬はなぜか芥川竜之介坂本竜馬とは表記されず(司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が有名なのにもかかはらず)、恐竜を恐龍とは書かない。だから竜と龍の双方がまったくの別字だと認識してゐる人がゐるぐらゐで、まへに龍の新字はなんでせうと問題をだしたら、その人は「襲」ととんちんかんな回答をしてゐた。

個人的トロピカル~ジュ!プリキュアのベスト回

まへがき

 プリキュアが好きな友人や知りあひが身近にふたりゐる。他方私はプリキュアに関心がないのだが、新型ウイルスでひまだったので今年は「トロピカル~ジュ!プリキュアを見てみた。
 現時点でまだトロプリは完結してゐないが、年内の総括として、いままでの回のうち少しでも気に入った回をあげておく。これはトロプリのみにおける相対的評価であり、他作品を含んだ相対的評価ではない。私はほかのプリキュアをひとつも見たことがない。完結したら追記するつもりです。

少しでも気に入った回ピックアップ

  • 第15話「みのりがローラで、ローラがみのり!?」
     ローラとみのりんセンパイが入れ替ってしまふ話。入れ替はることで両者が大変いきいきしてゐた。入れ替はる原因はもっとのちの第35話で明かされる。
  • 第19話「まなつパニック! 学校の七不思議!」
     エルダちゃん回。エルダがプリキュアに接するうち、彼女のプリキュアに対する印象は変っていったかもしれない。
  • 第22話「ヒミツの大冒険! 人魚の宝を探せ!」
     人魚伝説が再現されるところがよい。
  • 第23話「南乃祭り! 教えて、ローラの願いごと!」
     第1話から舞台がおそらく沖縄なのではないかと思はせる南国なのにもかかはらず、いままで南国要素が前面に押し出されたことはなかった。しかしこの回ではしっかりゴーヤーが登場して、ああやはり南国なんだなと思ったのだった。
  • 第29話「甦る伝説! プリキュアおめかしアップ!」
     作画回。とにかく動きまはる。ヤラネーダが水なので戦ひ方の難易度が増してゐる。
  • 第33話「Viva! 10本立てDEトロピカれ!」
     ひとつのプリキュアを通して見たのはトロプリが初めてだから知らなかったのだが、プリキュアには決ってイカレ回といふものが存在するらしい。この回がさうである。のっけからみのりんセンパイが世にも奇妙な物語タモリ、さらにイヤミのシェー、映画関係でハートキャッチプリキュア!もぶちこんできた。(変身シーンつき。)
  • 第35話「わくわくハロウィン! 負けるな、まなつ!」
     私のおすすめ回のひとつ。
     学校を盛りあげる役目としてトロピカる部が板についてきたと思った回。戦闘のまなつの選択も必見。
  • 第38話「決めろ! あすかの友情スマッシュ!」
     私のおすすめ回のひとつ。
     実はこの回はかなり感心しその日は二度見てしまった。普段の回とくらべてぬきんでる脚本だと思った。もう一度やりなほしてみるかといふ、第5話のあすかセンパイの心持は伏線として、第31話「トラブル列車! あすかの修学旅行!」で原因が明かされる。しかし第31話は消化不良で、第38話はそれを挽回したと思ふ。しかも第37話「人魚の記憶! 海のリングを取り戻せ!」で、まなつの父の言った言葉が反映されてゐた。高校に向けてあきらめずに参考書を買って勉強しようといふ態度もよかった。
  • 第40話「紡げ! みのりの新たな物語(ストーリー)!」
     私のおすすめ回のひとつ。
     展開がいいと思ふ。みのりんセンパイは文学好きといふよりは、神祕なもの好きと言ったほうが合ってゐる。それはいままでの回を見ても明らか。第40話を見るまへは地味な回だらうなと思ってゐたが、パパイア農園を訪れようといふまなつのポジティヴな行動により、実はみのりんセンパイがパパイヤを食べたことがないと判明する。この場面でみのりんセンパイの一面が見れたやうな気がする。

あとがき

 ほかのプリキュア作品がどうだったのかは知らないが、トロプリはキャラクターの変顔が多かったと思ふ。
 また、私は作品の中盤までずっと違和感をいだいてゐた。その正体はOPのテンションが高いのに対して、全体としてゆったりとしてゐる回があったことである。OPでのイメージを持ちつづけてゐると、本篇が妙に間延びしてると感じたことはしばしばあった。
 今年は例年にくらべてトロプリ以外にも私は深夜枠のアニメを多く見た。他作品とくらべることはしないが、あへて言へば見たアニメのなかではトロプリが一段と見やすかった。ひろく子供たちを対象にしてゐるためか、設定がごたごたとしてをらず、わりあひ現実に則した内容だったことが肩が張らずに見れた理由かもしれない。

【追記 2022年1月19日】
 さんざ悪の親玉の威厳をにほはせてきたあとまはしの魔女が、終盤あっけなく退場してしまった。伝説のプリキュアと邂逅する感動シーンなのはいいが、もっと丁寧な伏線を張ったほうがよかったと思ふ。
 「美少女戦士セーラームーン」を見たら、プリキュアセーラームーンの影響下にあると感じた。トロプリのキャラクターの変顔も、セーラームーンを見ればこれがやりたかったのかなと推測できる。

【追記 2022年1月31日】
 最終話を見た。劇を見にきた人びとの中にはあすかセンパイのお父さんがゐた。ローラが人魚だとカミングアウトする場面ではみな啞然としてゐたが、結局記憶は消去されてしまふのでまあいいかと思った。最後の、記憶を失ってから再会するくだりでは、第1話のリップが思ひ出すきっかけになった。再会するのは哀しい雰囲気を避けるためだらう。エルダちゃんの持ってゐた人形は第19話に出てきたもの。
 不満点をのべれば、人魚の世界がどんなところなのか、くはしく掘り下げたほうがよかったし、各プリキュアの個人技の見せ場が少かったと思ふ。
 次回作の主題はごはんらしい。道理で妖精が米米言ってゐて、なんだか井上ひさしの『コメの話』を思ひ出した。

ヶとは何か

 ワンセグをつけたらフジテレビの林修のニッポンドリルといふ番組の再放送があって、ちょっと見てみた。日本語についての問題を芸人らが考へて林が解説する流れだった。
 「一ヶ月などのヶは何か」といふ主旨の問題があった。千鳥のノブや麒麟の川島が当てずっぽうに大喜利回答をするなかでモーリー・ロバートソンが答への核心をついてゐた。ヶは竹冠の片方に見える。一ヶは一箇とも書くから、もともとは箇だったものが省略されて、竹冠の片方のヶになったのではないかと推論したのである。
 これは実際にある説なのである。『大野晋の日本語相談』河出文庫の「一ケ月の「ケ」はなぜ「か」と読む?」に同じことが書いてある。
 一方、図書館に行って日本国語大辞典第二版小学館にあたったら、箇・個と同じ助数詞である「个」がヶになった説を採用してゐた。どうやらその説のほうが主流らしい。むかし読んだ漫畫の、蛇蔵&海野凪子の『日本人の知らない日本語3』メディアファクトリーでも「个」由来説を採用してゐた。もっとも『日本人の知らない日本語』は参考文献に『大野晋の日本語相談』を挙げてゐる。第2巻でも形容詞「緑色い」について、大野の本に詳しい説明がある(「「白い」「黒い」は生まれた時代を反映」)と書いてゐたから、大野の「个」についての見解は踏まへてゐるのだらう。

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〘接尾〙
① 「箇所」「箇条」「箇年・ケ年」「箇月・か月」「箇日」などの形で漢語の数詞につけて、物事を数えるのに用いる。「ケ」「カ」は小さく「ヶ」「ヵ」のように書くこともある。「ケ」は一般には片仮名と理解されているが、じつは漢字「个」の変形。「个」は「箇」の略字で、中国では古くから用いられた。「個」は中国では「箇」と同音・同義。前に来る数字のうち「四」は現代では「よん」と言うが、古くは「し」と言った。「七」は古くは「しち」とのみ言ったが、現代では「しち」「なな」の両方の言い方をする。

 しかし大野は、物を数へる際に「个」を用ゐた例が奈良時代平安時代前期の日本の文献に見当らないと書いてゐる。(「再説「一ケ月」のケについて」)私はくはしくないから知らないのだが、「箇」由来説は否定されたのだらうか。

 話を戻すと、私はこのことを知ってゐたからモーリーさんはさえてるなあと感心した。当然林先生も解説で触れるだらうと思ってゐた。しかし解説ではヶは漢字ではなく記号だと言ひ出し、しかもまったく由来には触れなかったのである。「一ヶ月などのヶは何か」の答へが「記号」では、まったく解説になってゐない。だいたい漢字にかぎらず文字そのものが記号なのは自明である。しかもこれは林の知識ではなかった。といふのは、解説の最初に、これは大学の先生の監修のもとにある旨を言ってゐて、だから林は他人の解説を読み上げたにすぎない。私は呆れてしまった。
 現在、林修のニッポンドリルは日本語の解説などせず、企業商品のすごさを宣伝する番組に転向したやうである。私は溜飲が下がる思ひだった。