大江健三郎の文章の癖を真似したい人たちのために(随時更新)

随時更新

 以前『もし文豪たちが カップ焼きそばの作り方を書いたら』(宝島社)をぺらぺらめくってみたら、夏目漱石とか太宰治とかいろいろあるなかで、大江健三郎も載ってゐた。あのゴツゴツとした大江構文を期待して読んだが、どうみても初期の大江の文章でつまらなかった。
 三田誠広が「芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方」といふWEB連載でかう書いてゐた(【第61回】文体の強度とは何か)。

で、大江さんの文体なのですが、これは当時、大流行していたフランスの実存主義哲学の、ものすごく下手くそな翻訳の真似というか、パロディーみたいな文章なのですね。というのはぼくの偏見なのでしょうが、とにかく読みにくい、もってまわったような、もっとスッキリ書けと言いたくなるような、ものすごい悪文なのです。

でもこの文章を読んでいるうちに、しだいに麻薬のように、文体に足もとをすくわれて、いつの間にか、こういう文章こそが文学なのだという気がしてくるのです。この文章を読んでから、他の書き手の文章を読むと、子ども向きの童話かラノベみたいな感じがして、アホらしくて読めなくなる。それほどの、中毒になるような文体なのです。

文体の強度とでも言えばいいのでしょうか。のぞきこんだ途端に顔面にパンチをくらうような、ガーンというショックを感じます。そのショックが、まさに文学なのですね。ラノベしか読まない若い読者は、シュークリームしか食べない子どもみたいなものです。一度、固くて噛めない、呑み込めないものにも挑戦してみてください。これが文学です。本物の文学は、こんなにも固くて、難解なのです。

でも、気をつけてください。この強度は、クセになります。読み終えたあとで、もうおしまいか、もっと読みたいという気がしてきたら、すでにあなたは中毒になりかかっています。

 ラノベ莫迦にしてゐるやうで不快な人もゐるだらうが、私にも《この強度は、クセになります。読み終えたあとで、もうおしまいか、もっと読みたいという気がしてきたら、すでにあなたは中毒になりかかっています。》といふ気持はよくわかる。真似してみたくなるのである。しかし小谷野敦が『文章読本X』に書いてゐるとほり、真似すれば大江の文体だと看破されてしまふ。

(略)大江の文学が、このよじくれた複雑な文章のゆえに成立しているのも否定できない。だが、大江の文章は、泉鏡花の文章と同じで、人がまねすべきものではない、大江にしか書けず、またまねしても大江のまねにしかならない文章だと言えるだろう。(p.118)

 しかしそれでも大江の文章に熱をあげてゐるといふ人のために、中期以降の大江の文体の癖を列挙していきたい。なほ、かういった癖は岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』に收録されるにあたって、一部修正された。たとへばテレヴィをテレビと直してゐた。

  • 外来語表記
     テレビ→テレヴィ(Televi) ベトナム→ヴィエトナム(Vietnam)
     もっとも有名な癖である。大江の外来語表記は発音に忠実といふよりも、英語表記に忠実である。
  • 会話文
     会話文は「かぎかっこではなく、――ダッシュで始る。段落の書き出しの会話は一字下げてから――で始る。なほ島田雅彦も――で会話を始めるが、段落の書き出しは一字下げてゐない。
  • 引用文
     引用文は『』ではなく、《》に收める。
  • 当て字
    例 助ける→救ける 恐れる→惧れる 大きい→巨󠄀きい 暗い→昏い
  • 同音の漢字による書きかえ
    例 収集→蒐集 退廃→頽廃 離反→離叛 壊滅→潰滅 援護→掩護
  • 異体字
    例 体→躰 駆ける→駈ける 廃村→癈村
  • ルビ
    例 演奏パフォーマンス 暗喩メタファー 案内人ストーカー 
  • 送り仮名
    例 働く→働らく 始まる→始る 集まる→集る 繫がる→繫る

 ちなみに、私が中期以降の大江の小説で、一読してもっともわけがわからなかったのは『「雨の木」を聴く女たち』である。霧の中のやうに茫漠としてゐる。私は三度読んでやうやくだいたい理解した。表題作もよく読んだら時計の価格の伏線があるのに気づいたが、一読しただけでは文章が複雑なので見逃してゐた。

辞書の「神無月」の語源はどうなってゐるのか

はじめに

 けふ初詣にでかけるあひだに『新明解語源辞典』を読んでゐたら、「かんなづき」の項目にかう書いてあるのを見つけた。

かんなづき【神無月】
陰暦十月の称。「かみなづき」の転。「かみなづき」の「な」は連体修飾格を示す助詞「の」と同じような意味の語で、「かみなづき」は「神の月」の意。新井白石の『東雅』などはこの語源説を採る。これを「神無し月」からとするのは古くから行われてきた通俗語源説。すでに平安時代の『奥義抄』は、「十月 カミナツキ 天の下のもろもろの神、出雲国に行きて、この国に神なき故に、かみなし月といふをあやまれり」と記して、「神無し月」を正しいとしている。助詞「な」の意味が忘れられ、これを「無し」の語幹と考えたため生じた説である。これに対して、『大言海』は、「醸成月(かみなしづき)の義」とする。「醸成月」とは「新しい穀物で酒を作る月」の意味で、この月、神に供えるため酒をかもした、と言う。

 私は一読しておどろいた。ニッポニカに*1

10月には日本国中の神々が出雲大社に集まり、出雲以外の国々には神が不在となるため、「神無月」(逆に出雲では「神在月」という)

とあるとほり、私はずっと十月は島根だけ神在月で、それ以外は神無月だと思ってゐたからである。しかし日本国語大辞典にあたってみても*2

かみな‐づき【神無月】
〘名〙 (「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという) 陰暦一〇月のこと。かんなづき。かみなしづき。かみなかりづき。《季・冬》
※万葉(8C後)八・一五九〇「十月(かみなづき)しぐれにあへる黄葉(もみちば)の吹かば散りなむ風のまにまに」
※蜻蛉(974頃)下「かみな月、例の年よりもしぐれがちなる心なり」

大辞泉にあたってみても*3

かんな‐づき【神無月】
《「かむなづき」とも表記》陰暦10月の異称。かみなしづき。かみさりづき。《 冬》「―ふくら雀ぞ先づ寒き/其角」→神在月
[補説]語源については、全国から神々が出雲大社に集まるため、諸国に神がいなくなる月の意からという俗説が古くからいわれている。別に、新米で酒をかもす「醸成月」、あるいは雷の鳴らない「雷無月」の意ともいわれるが、「な」は「の」の意で、神を祭る月すなわち「神の月」の意とする説が有力。

きちんと助詞「な」に言及してゐる。

分類

 私は家ぢゅうの辞書をひっくり返してみた。すると「かんなづき」の語源について、主につぎの5通りの挙げ方がなされてゐることに気がついた。

  1. 語源を挙げてゐない。あるいは「神無し月」説には触れてゐても、語源として扱ってゐない。
  2. 「神無し月」説のみ挙げた。
  3. 「神無し月」説と「な=の」説の両方のみ挙げた。
  4. 「神無し月」説に加へて、醸成月や雷無月などの諸説も挙げた。
  5. 「神無し月」説と「な=の」説に加へて、醸成月や雷無月などの諸説も挙げた。

 そして私が紙版の辞書とウェブ版の辞書*4を含めて確認した28冊の辞書を、以上の5通りの分類にしたがって分けた。結果は下記のとほり。
 辞書名の前の記号は、「神無し月」説に関して、《俗に》または《俗説》などと明記してゐるなら「○」、さうでないなら「△」と示した。辞書名の後ろの全角数字は、その辞書の版を示した。数字がない場合は初版。()は語源が載ってゐる項目が「かんなづき」でない場合、その項目名を示した。

  1. なし
    岩波国語辞典8。学研現代新国語辞典6。講談社日本語大辞典2。三省堂現代新国語辞典6。△辞林21(かみなづき)。新選国語辞典10。新潮現代国語辞典2。新潮日本語漢字辞典。新明解類語辞典。類語国語辞典。
  2. 「神無し月」
    △角川必携国語辞典。○現代国語例解辞典5。△三省堂国語辞典8(かみなづき)。△集英社国語辞典3。△新明解国語辞典8。△世界大百科事典2。
  3. 「神無し月」+「な=の」
    講談社類語辞典。○古典基礎語辞典(かむなづき)。○三省堂全訳読解古語辞典(かみなづき)。○新明解語源辞典。○精選版日本国語大辞典。○大辞林4。○明鏡国語辞典2。○明鏡国語辞典3。
  4. 「神無し月」+諸説
    △角川国語大辞典。△日本大百科全書
  5. 「神無し月」+「な=の」+諸説
    小学館全文全訳古語辞典(かみなづき)。○デジタル大辞泉

考察

 以上の結果から、私が確認した辞書について、次の傾向があると考へられる。

  • 2において、「神無し月」説のみ挙げた辞書は、ほとんど「神無し月」説を俗説として扱ってゐなかった。
  • 3冊の古語辞書はすべて、「神無し月」説と「な=の」説の両方を取りあげてゐた。また「神無し月」説を俗説として扱ってゐた。
  • 大型・中型国語辞書である「精選版日本国語大辞典」「大辞林」「大辞泉」は、「神無し月」説と「な=の」説の両方を取りあげてゐた。また「神無し月」説を俗説として扱ってゐた。
  • 日本大百科全書」や「世界大百科事典」など、日本語辞書ではない大型の事典類は、「な=の」説を取りあげてゐなかった。また「神無し月」説を俗説として扱ってゐなかった。

 古語辞書や日本国語大辞典などの大型中型辞書を見るかぎり、現在「かんなづき」語源の定説は「神無し月」説ではなく、「な=の」説である。
 たとへば、大野晋の「古典基礎語辞典」にはかう書かれてゐる。

俗信に、全国の神々がこの月に出雲大社に集まるので、出雲以外の諸国は「神の無い月」となるところからの名として広く信じられたが、確実な古い例はない。また、この俗信が一般化すると、この説を補強として、出雲国では同じ月を「神在月」とも称するようになった。

 ほかに、北原保雄の「小学館全文全訳古語辞典」にはかう書かれてゐる。

「な」を「無」と解し、出雲に全国の神が集まり、各地を留守にするからとする俗説は、平安時代末から生じた。なお、近世以後、出雲地方では十月を「神あり月」とも呼ぶようになった。

 ちなみに「明鏡国語辞典」は、小型国語辞書で唯一「神無し月」説と「な=の」説の両方を挙げてゐた。これは、北原が「明鏡国語辞典」の編者だからだと考へられる。
 一方、大野も小型辞書の「角川必携国語辞典」を編集した。しかし大野の「古典基礎語辞典」の記述とは裏腹に、「角川必携国語辞典」は「神無し月」説のみ取りあげてをり、「な=の」説は挙げてゐない。

感想

 以下、私の所感をしるす。
 2において「神無し月」説のみ挙げた辞書は、より蓋然性の高い定説である「な=の」説をも挙げて、「神無し月」説は俗説だとはっきり明記するべきである。蓋然性の低い説だけを掲載すると、ひょっとして謬説や妄説を広めることになりかねない。
 つねに辞書の記述は、最新の研究成果にもとづいて検討する必要がある。
 その点、たとへば「角川必携国語辞典」は1995年に刊行されて以降、一度も改訂されてゐないので怪しい記述が多く残ってゐるだらう。もうひとつの欠点は、中高生向けの学習用辞書なので、語彙が約52000語と一般向けの辞書より少󠄀いこと。鬱勃もなければグラデーションもない。
 たまにどの辞書にも載ってゐない語釈があるので、よく使ふ辞書に目当ての意味が載ってゐなかったら、私は順繰りに手持ちの辞書を引いていって、たぶん角川必携はいちばん最後に引く。
 大野が編者といふこともあって、刊行された当初は、以前に週刊朝日の日本語相談で一緒になった井上ひさし丸谷才一がほめてゐた。私も『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』を読んで、井上が角川必携をほめてゐたので買ったことがある。しかし常用する国語辞書としては、ほど遠いと言はざるを得ない。
 大野は日本語タミル語起源説を提唱したが、学界からは認められてゐない。学界では大野は異端学者である。しかし専門家ではない井上や丸谷は、タミル語起源説や角川必携を含めてよく大野のことをべた褒めしてゐた。ほぼ礼賛に近い状態の称揚は、まるで御用学者ならぬ御用小説家である。
 かういふ馴れ合ひは、学問には不要である。辞書にも不要である。

*1:神無月とは - コトバンク

kotobank.jp

*2:コトバンク前掲ページ

*3:コトバンク前掲ページ

*4:コトバンク前掲ページ

個人的デリシャスパーティ♡プリキュアのベスト回

まへがき

 昨年度のトロプリにつづけてデパプリを見てゐる。私がいだいてゐたプリキュアに対する偏見は多少はがれ落ちてきて、子供向けアニメとしてのある程度の役割はうすうす理解してきた。
 しかし声を大にして言はせてもらへば、昨年度と今年度の作品とをくらべると、明かに今年度の方が一話一話の作品の質は高く思へた。トロプリでいいと思へたのは第38話「決めろ! あすかの友情スマッシュ!」だけなのに対して、デパプリは比較的多かった。その理由としては昨年はまだまだ新型ウイルスの余波が続いてゐたとか、単純にメイン脚本の詰めが甘かったとか、まあ複合的要因はあるだらう。

 さて現時点でまだデパプリは完結してゐないが、年内の総括として、いままでの回のうちでよかった回をあげておく。昨年度は《少しでも気に入った回》としてゐたのだが、これはあまりトロプリの脚本でいいと思へるものが少かったからである。

よかった回ピックアップ

  • 第11話「ジェントルーの罠!ゆいとらん、テストで大ピンチ!?」
     しばらくデパプリは低調だったのだが、この話は少しおもしろい。
     Is this my pen?といふ英文をつかふ機会なんてないでしょといふらんのツッコミにはにやりとしたし、食ひ物のことわざだけはまともに答へられるといふネタもよかった。伏線回収(?)もあった。そしてプリキュアに敗れた生徒会長が正体を現したと思ったら実は心を操られてゐたといふ意外性は、なかなかのシチュでちょっと昂奮しさうになった。
  • 第18話「わたし、パフェになりたい!輝け!キュアフィナーレ!」
     私のおすすめ回のひとつ。
     この話は感極まった。戦闘も見応へがあり、4人目のプリキュアになる直前の場面は胸にぐっときた。
  • 第20話「あまねのマナーレッスン!憧れのレストラン」
     私のおすすめ回のひとつ。
     満足がいく日常回だった。一流のレストランへ行くのにマナーを不安がってるあまねと、両親から受け継いだ上品さを体現できるここね。ふたりの関係をえがいてゐたのがよかった。お互ひのダンスで締めるやり方には、おのおのの関係を浮かびあがらせる巧みさを感じた。
  • 第21話「この味を守りたい…!らんの和菓子大作戦」
     ふつうの回だけど、最後の老店主のほほゑみなどはまあよかった。
  • 第29話「おいしいパラダイス!レッツゴー!クッキングダム!」
     ふつうの回だけど、セルフィーユといふ登場人物がまあよかった。
  • 第35話「ここねとお別れ!? いま、分け合いたい想い」
     私のおすすめ回のひとつ。
     すなほで丁寧なつくりの、満足がいく日常回だった。いつもの過剰な演出はなりをひそめて、イチョウの落葉などは演出が引き立ってゐた。話の方も親子関係といふ普遍のテーマを堅実にかたちにして、静かな感動があった。作画もヴェテランの手によるものだけあって、乱れたところがない。
     全体として地味さうに見えながらも、よく整った回であった。と、最近高畑イズム(なる言葉があるとすれば)に影響されたリアリストの私はかう考へるのである。
  • 第39話「お料理なんてしなくていい!?おいしい笑顔の作り方」
     突出してゐないふつうの回だけど、なかなかおもしろかった。
     誰もが忘れてゐた主人公の特技であるサッカーを1話ぶりに見た。以前ニコニコ大百科を見た時に、主人公だけほかのキャラと比べて掘り下げが足りないといふ意見を目にして、たしかにさうかもしれないなと思ったものの、この話で久しぶりに自分の意見をハキハキとしゃべる主人公や、その母子関係を目のあたりにした気がする。
     さらに印象的だったのはブンドル団のセクレトルーが自分の信念を語るところで、それを聞いて主人公がハッとする。そして、その後ベンチでおばあちゃんの言葉だけでは足りなかったと、この話のメインストーリーの友人に語るところ。友人は父親をねぎらってやりたいと苦悩するが、その父親も娘をおもひ世話を焼く。このやうに自身の心情を簡単に吐露して最終的に解り合へる父娘はめづらしい気がするけれど、まあ子供向けとしてわかりやすさを優先した結果だ。 
  • 第44話「シェアリンエナジー!ありがとうを重ねて」(追記 2023年1月30日)
     今期の総決算。なかなかのトンデモ展開だったが、後半にかけての作画は迫力あるものに仕上がってゐる。

あとがき

 ここまで評しておいてデパプリを否定するみたいだけど、デパプリは前作よりもストーリーが中心になってなかなか凝ってゐるものの、少しわかりづらいふしがある。
 また、お菓子がテーマのキラキラ☆プリキュアアラモードで実際にお菓子をつくってゐたやうに、食事がテーマなので、食事マナーレッスンなり料理作りなり、当初期待されてゐたなにかしらの食事に対する子供向けの教育要素がほとんどうすかったのは残念だった。

 それに、最近TVerで初代プリキュアふたりはプリキュアを第10話まで見てみたら、その質の高さを感じずにはゐられなかった。トロプリとデパプリよりも圧倒的に完成度が高いと思ったほどだ。
 なによりすぐれてゐるのは態度のリアリティ人間関係のリアリティといふ点だらう。
 態度のリアリティは、主人公の美墨なぎさの独白によくあらはれてゐる。アニメの冒頭に必ず入る独白は、前回までのストーリーをふりかへる役割を果してゐる。その独白で主人公は、なぜ自分がプリキュアにえらばれたのか、ずっと釈然としない気持を語ってゐるのである。
 また、第1話でメップルの携帯型変身装置が窓から飛び込んできた時の、主人公を反応を見てみればわかる。窓からの闖入物に対してラクロスのスティックでつんつんと恐れながら触れてゐるのだ。これは、たとへばHUGっと!プリキュアの第1話で赤ん坊のはぐたんに対して、主人公がまったく不思議がらずに抱っこしてゐるのとは歴然とした差だ。前者にはリアリティがあるが、後者は通俗的なのだ。私は前者の方がより共感しやすい。
 人間関係のリアリティは、主人公のなぎさと弟の美墨亮太とのリアリティのある兄弟関係の描写にも顕著だが、特に第8話「プリキュア解散!ぶっちゃけ早すぎ!? 」を見た時にほかにはないものを感じた。この話では、主人公は相方の雪城ほのかと、たんにプリキュアとして相手と付き合ってゐるにすぎず、日常的な友達ではないといふ理由から仲違ひしてしまふ。これは当然の通過儀礼といへる。プリキュアは悪を退治する職業的な仕事のやうなものであり、プリキュア同士の関係は仕事仲間のやうなものだからだ。無作為にえらばれたプリキュア同士が必ずしもすぐに友達になるわけではないのが自然であって、トロプリにもデパプリにもさういふ描写がなかったのは不思議だった。
 また痛切に感じたのは、メインの登場人物どうしの人間関係をうまく書ける限界の人数はふたりがちょうどいいのではないだらうかといふことだ。当然ながら、1年間で約50話もの話数をこなして書いていくうへでは、人数が少いほどやりやすく、結果としてふたりがいちばん書きやすいといふことになる。「Yes!プリキュア5」などは見てゐないのでなんとも言へないが、トロプリは5人だし、デパプリは4人に加へて周辺の人数が多いので、うまく書き切れてゐない原因になってゐる気がする。だが、それぞれの脚本家どうしの連携がうまく取れてゐない可能性もあり、ここらへんはプロデューサーの手腕次第である。
 しかし、ふたりといふ人数は、4作目「Yes!プリキュア5」以降ない。方針転換した詳しい経緯は加藤レイズナプリキュア シンドローム!』幻冬舎)の鷲尾天へのインタヴューにあるから、そちらにゆづるとして、いまではもはやふたりといふ人数は、あくまで美墨なぎさ雪城ほのかといふ初代プリキュアのために用意されてゐる数なのである。だからこれからもプリキュアは最低でも3人でなくてはならないのだらう。

追記(2023年1月30日)

 完結した。
 黒幕の正体はわりと早い段階からわかってゐたので、意外感はなかった。最初からゐるのにもかかはらず、登場がほとんど少かった影のうすいキャラだったから、うすうす勘づいてゐたのだ。しかし黒幕がなぜそんなに食物を恨みに思ってゐるのかは、よくわからなかった。黒幕についての描写が足りなかったと思ふ。
 拓海の恋愛もとくに進展がなかったが、まあ昨年のトロプリよりはストーリーがまとまってゐてよかったのではないかと思った。
 それにしてもてっきり最終話の脚本はシリーズ構成の平林佐和子さんだと思ったのだが、伊藤睦美さんだった。伊藤さんの脚本はここね中心の回が多く、デパプリではここね担当なのかなと思った。

 さて次作の「ひろがるスカイ!プリキュアだが、どうやらプリキュア20周年だといふ。そのせいか鷲尾天がプロデューサーに戻るやうで(正確には企画も担当する)、東映のやる気を感じた。クール系ではない青髪の主人公は、いままでの傾向からしてはめづらしいだらうし、ソラシド市なる名前を聞いたら、ドレミファ市もあるのかと思ったりした。

〈前回までの記事〉

winesburg.hatenablog.com

winesburg.hatenablog.com

淫靡な図書館(1)

 小学生の時に地元の図書館で同級生の弟たちに会った。下村と瀬田といふふたりの、それぞれの弟らは、図書館の白くくすんだ受付で漫画はありませんかとたづねて、緑色のエプロンのをばさんに、ない、と返された由だった。ふたりは退屈さうにしてゐた。隣の区では書架に漫画を入れてゐるのだが、ここにははだしのゲンぐらゐしかない。そこで私は三階へ行き一册の本を取ってきて、みんなを二階の飲食コーナーに坐らせた。

 この『ロボットマンガは実現するか実業之日本社は、以前私がドラえもん目当てに探し当てた本である。ほかにも鉄腕アトム鉄人28号エイトマンマジンガーZゲッターロボロボット刑事機動警察パトレイバーを收録してゐる。
 やはり子供ながらに印象的だったのは、手塚の鉄腕アトムである。收録されてゐる話には電光人間と呼ばれる、全身ガラスでできた透明なロボットが登場する。光で屈折させないと姿が見えず、悪い連中にさらはれて強盗を働いてしまひ、まだ善悪が判らずにゐる電光はアトムと悪者のスカンクのはざまでもがき苦しむ。
 当時私は、この善悪の判断がつかない無垢な電光に女性的なものを感じた。
 ほかの漫画のロボットたちはあまり記憶にない。どれもアトムやドラえもんにくらべると戦闘用として体格がよく、人間によって操縦される側なので、人間的なところが少いからだらう。
 さて話をもどすと、私は意気ごんで鉄腕アトムをかれらに見せたのだったが、幼いふたりはいかにも退屈さうに腕を机の上に投げ出しながら、ちがふことをしようよと提案した。よく憶えてゐないが、そのあとふたりとは別れた気がする。
 私は漫画のほとんどない区にゐながら、その例外をほかにも見つけてゐた。
 たとへばいつも三階へ行って日本史のコーナーをのぞくと、刺戟的な漫画が置いてあった。石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史中央公論社である。いまは文庫になってゐる。

 この第1巻『秦・漢帝国と稲作を始める倭人』は相当扇情的で、をはりの頁に古代日本の、村全体でいりみだれて馬乗りになったりしてゐる乱交が描かれてゐた。以前Twitter石ノ森章太郎の日本の歴史と検索したら、インスタント・マギの青木潤太朗のツイートが流れてきて、思はず苦笑してしまったことがある。

 ほかにも別の巻で、スサノヲによって陰部を突いて死んでしまった機織女といふ、古事記の逸話を描いてゐたのが記憶に残った。
 これで思ひ出すのは、私が茨城に住んでゐた頃に中央図書館で読んだ漫画で、おそらく手塚ではないかと思ふのだが、徳川時代あたりの男の子と蛇の話だ。経緯は忘れてしまったがおそらく子供の恩義を感じて、蛇が女の姿になる。着衣を身につけてゐないので裸体の恰好ではじめ出てくるのだが、人目についてもうまい具合に蛇に戻って姿を隠す。最終的には男の子が熱を出してうめき、盲になってしまひ、人身の女はそれを見かねて自分の眼を子供の眼と交換して、子供の前から姿を消してしまふ。
 私はこの漫画をいつかもういちど読んでみたいと待望してゐて、しかし誰のなんの漫画だかわからないのが惜しかった。

読んでもよくわからない本のはなし3『パルプ』

 高橋源一郎と翻訳家の柴田元幸の対談『小説の読み方、書き方、訳し方』河出文庫の第三章「小説の読み方」海外文学篇を読んだら、

高橋 (略)柴田訳の『パルプ』は、ブゴウスキーの原文よりいいんじゃないかなあ。あの日本語はすごい。

僕は、九〇年代の日本の最高の名訳は柴田さんの『パルプ』だと思ってるんですけど、(略)『パルプ』はすかすかに見えるじゃないですか。でもよく読むと、ある意味で日本語の散文の最高の例だとわかるはずです。

と言ってゐたので、へえそんなにいいのかと思って、〈欲しい古本リスト〉の一册として携帯のメモ帳に加へておいた。普段からただでさへ欲しい本が多いのに、さらに忘れがちな性格を補助する目的で、隣駅のブックオフへ出かけた際に必ずブの棚を見るやうに書き留めた。入店する度に声を張りあげて挨拶するカウンターの店員に、ひとづきあひの不得手な人間としてなかば萎縮しながら、ある日やうやく私はそれを手に入れた。
 しかしこの小説の終り方は訳がわからなかった。ストーリーも大しておもしろくない。最近ちくま文庫から復刊したが、小説では探偵の依頼人の女が《目もくらむ素晴らしい体。》となってゐるのに、新潮文庫版にはさまれてゐるアメコミ風の挿絵からは、アメコミが往々にしてさうであるやうに、美人には見えないのだった。ベティ・ブープみたいなものだ。
 高橋が評価したのはこの小説の、すぐに売女だのケツだのバカだのアホだの飛び出す、スラングを交へた俗悪な言回しの所だらうが、文体として新奇性のあるものには思へない。高橋と柴田の両者が評価してゐるジョイスフィネガンズ・ウェイク』も、ピンチョン『重力の虹』もやたら文壇ではすごいすごい、ポストモダンだと持てはやされて、現代文学もその流れを受け継いでるやうな所があるのだが、本音の所では誰も読み通せるわけがないのである。読み通せてもまったく意味が解らないのである。柴田が対談で、

柴田 いまだによくわからないんですね、ピンチョンは。(略)とにかくピンチョンに限らず、僕は大作を読むと、あッという間に頭が飽和しちゃうみたいですね。

柴田 『フィネガンズ・ウェイク』は一ページ読んで、すごいことはわかるわけです。でも、そこでもう僕の頭は飽和しちゃうんだよなあ。

と言ったのは、「大作」とか「すごい」とかいふ読む前からの前評判を除いては、正しい感覚である。J・L・ボルヘスが、ジョイスのやうに難解で読むのに大変な努力を要する作品は失敗してゐると言った(『語るボルヘス岩波文庫のは正しく(おまへが言ふなとは思ふが)、丸谷才一ジョイスはすごいすごいと言ひつづけた事の誤ちはここらへんにあるだらう。こんなのは難解すぎて内容にすらたどりつけないのだから、内容以前に文体だけの小説なのだ。逆に『パルプ』などは文体がすかすかですぐに読み通せるが、内容がないといふのが内容である。
 先日、町田康の『私の文学史(NHK出版新書)を読んだら「筒井康隆の一人語りの衝撃」といふ項があって、町田は筒井の「夜を走る」といふ短篇が全編一人語りの大坂辯で書かれてゐるのを読んで、しかもそれが生の方言なので衝撃を受けたといふのだ。文学の言葉と日常の言葉とは常に分けられる存在であり、町田は、文学の言葉に土俗卑俗の言葉を混ぜる事は考へつかなかったといふ。
 しかし私にとってこの感覚は理解しづらい。私からすると大阪辯で語るとか井上ひさしのやうに東北辯で語るとかいふのは、単なる文体の差といふ域にとどまる話だ。それは私が常に標準語でものを喋ったり考へたりするからかも知れないし、文学の言葉と日常の言葉とを分けて考へてゐなかったからかも知れないし、あるいは文体よりストーリーを重んじるからかも知れない(その傾向は最近からだが)。あまり特異な文体で語ってわざとらしい感じを出すのも好きではないが、特異な文体なんてものはずっと同じ調子でつづけて読んでると飽きてしまふものだ。とにかくさういふ小説との出会ひが町田を文体の小説家としてデビューさせたのは確かである。高橋が『パルプ』をほめちぎるのも同じことだと私は思ふ。
 アマゾンを見たら、ほかのレヴューはどこがよくてほめてるのかさっぱりわからない文章ばかりだったが、これは腑に落ちた。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3SO5ZIPA8HBOB/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4480433473

《しかし、以上の読みが当たっているとしても、ブコウスキーはなぜ、93年になってそんなことを言いだしたのだろう?》といふ文につきる。こんな文体だけの小説なんか読む価値はあまりないと言っておかう。

すすき野原

 吾輩は猫である。四年程前に中國の光谷へ行つて、書店で漱石の『吾輩ハ猫デアル』の飜譯を二種類見付けた事がある。片方の、表紙に丸くなつた吾輩が坐つて居る書物を開いて見た所、冒頭に我是猫と書かれて居た。夫から「……信じられ無いかも知らんが本當である」と中國語で心許無い事が書いてあり、原文には無かつた筈だがと思ひ返して、飜譯者が現代風に意譯して仕舞つたのだなと見當が付いた。
 其󠄀後上海にも行つたが、小説家の奥泉光君が豫言して居た樣な事態にはつひぞ遭遇しなかつた。吾輩は殺人事件や、SF抔といふ面妖な體驗をして見たいと常々思つて居たが叶はずに居る。
 此間家に、友人で學生をやつて居る霧島淡月君がやつて來た。彼は理學士にならうといふのに、機械の畫面に食ひ入る樣にして、立體の女を上から下からいぢくつて居る。餘程呑氣な物である。吾輩は「自分は小學生の頃から『猫』を讀んで居た」と言つた。彼は黑い眼で余の顔を見ながら、「あれは文體がよく分らん」と讀む前から既に諦めて居る。氣の毒に思つて、泉鏡花君に比べれば大した事は無からうと教へてやつた。淡月君は其󠄀文章を見て目を丸くして居た。
 吾輩が東京に越して來た時分には、近くに無人の郵政社宅が殘つて居た。郵政省の遺物か郵政公社の遺物か、いつ頃に出來た物か分らない。ずつと土地の周圍を黃色と黑の格子で圍んで、其󠄀内側で背丈の高い雜草がぼうぼうと繁つて居る。此四角のがらんどうの建物は暫く其儘置き去りになつて居た。
 然し一昨年の暮れに用事で脇をそそくさと通つた所、いつの間にか靑い草丈が丸で洋々たる海の樣に邊りを埋め、風が吹くと穗が波立ち、空間が平らになつて居た。夫以外何も無かつた。但海の樣に透き通つて居るのでは無く、甚だ亂雜に草が配置されて居て大變見苦しい樣な氣がした。然し其内全然氣にならなくなつた。
 夫で先日通勤の爲に朝日の中そこを通らうとしたら、猫が一疋前を橫切つた。黑でも三毛でも無く、果して眞白である。殆んど白以外の色が見えない。余の前に居た背廣の男がぢつと此白を眺めて立つて居る。白は柵の中にもぐり込んで、向ふの霞掛かつた、薄の樣な草が集つた所にぽつかり空いた黃色い土の上に坐つた。目線を反らすと、一間許り離れた所にもう一疋白が居るのが見えた。織姫と彦星見た樣だと思つた。
 明くる日から此跡地に注意を拂ふ樣になつた。二度許り白を見掛たが、一向に一疋しか見付からない。然も先日出先から歸ると、業者が跡地で草刈をして居る。背丈が殆んど短くなつて、一面がはつきり見渡せる位變化して居る。以前の樣に茫洋たる感じがしない。もう白は來ないなと思つた。二人を隱してくれる所は無くなつて仕舞つた。後に但淋しい樣な氣持が殘つて居た。翌朝あの跡地に行つて見ると、白が一疋丈、ぽつねんと隅の土の上で、身を剝き出しにして相手を待ち續けて居るのが見えた。

泣いた小説

 けさは三時に起きた。早すぎるのは体によくないと思ったが、横になるとしきりに尿意がもよほされ、用を足しに立って、頭のなかに若干なにかしこりが残ってゐるやうに感じた。就寝前に見たホラーゲーム実況のせいか、先だって悪夢を見てゐたやうな気がする。まるで憶えてゐなかった。昨晩うとうとしながら考へついた、泣く小説といふ題のエッセーを、便所から戻ってきた体で書かうかと考へて躊躇する。まだ睡眠欲がある。体には悪いと再度思ひながら、横になってTVを見た。おもしろい内容だった。つづけて別のを見たがつまらなかった。途中でやめて、起きあがってこれを書いた。
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』については前にも書いた。文藝部の部長から読んだら泣くよと言はれてすすめられたが、退屈で、どこで泣くんですかと言ってやりたい気がした。村上春樹でおもしろかったのは『羊をめぐる冒険』で、純文学ではないが娯楽冒険小説のやうに読める。しかしみな妙に『世界の終り~』をほめそやす。貴志祐介恒川光太郎も「作家の読書道」で『世界の終り~』を挙げてゐて、鈴木晃仁教授もブログで傑作だと書いてゐた。ここらへんは夏目漱石から三冊えらぶ際に、大江と古井が両者とも『こゝろ』を挙げた(『文学の淵を渡る』)のと似てゐると思ひ、ああいふ駄作がもてはやされるのは理解できず、かれらと私のあひだにはなにか違ひでもあるんだらうとうたぐってゐる。
 実は私は人より涙もろいのではないかと時々疑ってゐる。小学生六年生、中学受験でクラスがすいてゐた時期、担任のN先生に韓国映画を見せられて、教室のなかでひとりだけ涙をぼろぼろとこぼした。男女のカップルがたのしく生活を送るが、事故で男が死んでしまひ、打ちひしがれた彼女の元に幻想的に手紙が届く。題名は全然憶えてゐないが、織田裕二が「一発太郎」として活躍する『卒業旅行 ニホンから来ました』といふマイナーなばかばかしいコメディ映画を持ってきたこともある人なので、これも全然知られてゐない映画かもしれない。
 私は小説よりも映像作品で泣いてしまふことが多く、しかし唯一泣いた小説はある。浅田次郎の短篇「角筈にて」である。中学生の時に読んで涙が出てきた。『鉄道員ぽっぽや』のなかの一篇で、表題作は大したことはないが、「角筈にて」と「ラブレター」は泣いてしまふ。浅田次郎ほどではないが、最近だとディケンズの『荒涼館』第15章「ベル・ヤード」を読んで、父親が死んでみなしごになった子供たちに涙がにじみ出てきた。先ほど第47章でもすこしだけ泣いた。
 ところで「鉄道員ぽっぽや」の映画は見たことはないが、主演が高倉健といふことだけは知ってゐた。高倉健はなぜか中国で大変人気があり、死んだ時もニュースになってゐたが、最近それが「君よ憤怒の河を渉れ」といふ映画がきっかけであったことを知り、おどろいたものである。

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 私はこの小谷野敦のレヴューを見て初めて映画を知り、「シナで八億人が観た」といふ記述がほとんど嘘のやうに思はれて信じられなかったが、調べたところ本当であったし、知人の中国人のZさんに聞いても高校生のころ学校で先生が見せてくれたと言って、ますます真実なのだと実感するよりなかった。とにかく中国では莫迦みたいに有名で、しかも映画の方も莫迦みたいに珍妙な映画らしく、無性に興味を引き立てられた。
 ここまで翌日のうちに書き切って、それから私はつぎのエッセーの内容を企図してゐる。題ももう決めてしまった。つらいことがあって、それを受けて、

 恢復する小説

とするのである。